2005年5月31日午後6時47分。母が他界した。92歳だった。

私は、母が39歳の時に4男二女の一番末の子として生まれた。

以来52年間。貧しい生活の中でも逞しく私たちを育て上げて

穏やかな晩年を過ごして、悠久の彼方に旅立った。
date 2005.6.19

北の大地

北の玄関 千歳空港 月形から見たピンネッシリ
人の気配を全く感じさせない広大な台地 沼だろうか湖だろうか。豊かな自然が横たわっている
新芽は遅い春の到来を真っ直ぐに受け止めている 農夫がこの大地に種を蒔く日も近い

故郷の地

私が高校生時代を過ごした家のあった場所 緩やかな坂を駆け上がるとバス停があった
石炭を洗った真黒い水が流れていた川は清流となった 川岸に色とりどりの花が咲き乱れる季節だった
広々とした大地にはチューリップがよく似合う すずらんではないらしい
水仙1 水仙2
今は原始の森に帰りつつある私の生まれた場所。私は北海道に帰ると必ずここに立つ。
緩やかな斜面に建てられていた夥しい数の粗末な炭住は、閉山と共に既に全て撤去されている。
かつて、道産子が山積みの石炭を積んで白い息を切らせて一気に駆け上がり、
小さかった私が兄の自転車を隠れて借りては足を付かずに上がろうと挑戦した上り坂は、
私の目にさえ辛うじて「これがあの坂だ」と判別が付くほどに朽ちかけている。

戦後のエネルギーを支えていた石炭が安価で手軽な石油に変わって行く中で
北国の小さなひとつの家庭がいとも簡単にその生活基盤を失っていったことを
想像するのは容易い。

あの倉本創さんに「悲別」と呼ばせたこの町は、その命名が如何に的を得ていたかを物語るように
その後、たくさんの悲劇を抱えて北海道の地図から静かに姿を消そうとしている。
隆盛の頃は人口10万を数え、市への昇格は時間の問題なんて豪語していた姿は今は欠片もない。

深い熊笹が覆い被さる私の出生の地は黙ってその役割を終えようとしている

植物園

北海道大学に所属する「植物園」は北国の植物体系を語る上では大きな役割を果たして来た。
今の私にとって、北の植物たちと挨拶をすることはかけがいのない光栄だと意気に感じて訪問させて頂いた。
軟らかな春の陽射しを受ける木々はやっと訪れた短い喜びの季節に歓喜の声を隠さない
松山で植物たちと出会った私は北国の植物は全くの未知の世界。
特に樹木の世界、針葉樹林辺りはお手上げの状態だ。
園内の大部分を占めるトドマツ・エゾマツは昔慣れ親しんだ風景ではあってもその生態系は知らない。

こっちでは2月に咲く水仙、5月に咲くツツジ、なかなか咲いてくれないクリスマスローズなどが
こうして一気に咲き乱れるのを見ると、話の世界では聞いていたが、百花繚乱の何ものでもない6月だと感じた。


母が逝って3週間が過ぎようとしている。
年齢が年齢だからそれなりに覚悟はしていた。

私が子供の頃は、
それほど丈夫ではなくあっち痛いこっち痛いと
いつも病院通いをしていたような母だから
こんなに長生きするなんて思ってもいなかったと、
冷静な部分の自分は現実を受け止めている。

だが、自分を生んでくれた人の死は
他のどんな人の死とも比較の出来ない感情が伴っていることも
また否めない。

この人は39歳で私を生んだ。
当時は貧しさのどん底で上に4人もの悪たれどもが
暴れまわっていたのだから
「生まない」という選択は当然あったと想像するのは容易だ。

私を身篭る数ヶ月前に当時中学1年になる娘を、
我が家の天敵、腎臓病で失うという慟哭を味わっていたことが
私を生んだ副因になってはいるのかも知れない。

私は末っ子としてこの母に強く愛されたと自負している。
「そんなに甘やかしているとてつやのためにならない。」と
兄弟たちはよく母を叱った。

「ぶつなら私をぶって。」
当時の父は短気で厳しく、上の兄弟たちはみな烈しく躾られた。
しかし、私が何か悪さをして逃げ回っていると、
母がその間に割り入ってこういって手を広げた。
その頃の父にはその手を払うパワーはなくなっていた。

多くの炭鉱マンは3000mも中の採掘の現場で働いた。
父は、決してその現場に近づこうとはしなかった。
母がそれをさせなかったといつか聞いたことがあった。
だから、父を失わなかった。だから貧しかった。

「北の国から」に描かれる世界はドラマの中の世界だが
私にはいつも記憶と重なり合って現実の重い響きが伴う。


私が結婚をし一男一女を設けて細々ながら穏やかに暮らしている。
これが私の母親への最大の供養になっているのではないかと願うばかりだ。(合掌)