日頃の生活で、気になったこと・覚えておきたいこと・感動したこと・腹の立つことなどなど、気ままに書いてみたいと思ってこんなページを用意してみました。どんな話になるかは私にも見当がつきません。

どうぞ感想を掲示板へ書いて下さい。





暑い夏、ど真ん中の車中



2018.7.16から

  

7.16

夏のキャンプは定番で、普通は歓迎されている。でも、車中泊の夏は冬よりも難しいと思う。冬の寒さはたくさん着たり布団に潜り込めばたいていは解決するが、夏の暑さはエンジンが掛かっているうちはクーラーのお世話になれるがエンジンを停めた瞬間から逃げようのない暑さとの闘いになる。果たしてどうなることやら。

今回の北限は一応蔵王あたりと決めた。青森まで無理に上がる必要もないかと経験で決めた。尾道からの2号線は快適に走れた。今回の豪雨で倉敷がやられたと報道されていた。通り道なので入れるものなら入ってみようかと思っていた。真備地区は海岸線かと思っていたらかなり内陸で何故こんなところが豪雨にやられたのかと少々訝(いぶか)しく感じながら入っていった。これまで東日本大震災の地震の跡や福島の原発事故の跡の廃墟や糸魚川の大火の跡などをそっと見て周ったが、今回のこの大きな川の氾濫が齎(もたら)す惨状も厳しいものがあった。

部外者は入ってくれるなという看板はあったけれど、検問もなくそれほど込んでもいなかったので割りとあっさりと現場に入っていった。突然に大きなゴミのかたまりが道の脇や、ちょっと空いている空き地に人の背の高さほどに積み込まれている。昨日まで使っていた冷蔵庫、籐椅子、本棚、布団、そしてゴミ袋。全部茶色いドロを被(かぶ)って放り出されている。一夜にして、穏やかに暮らしてした家は外観を残すだけとなり、取り外した窓から家財道具が何にもなくなった部屋と真っ黒なドロが居座って見える。小さな通りを2本走って立ち去る事にした。これ以上ここにいることは出来ない。失礼は承知で入り込んできたがあまりに申し訳なくてそそくさと被災地を後にした。

旅の出だしとしてはショッキングだったが、人間の暮らしはいつどこで突然壊れるか分からないと改めて深く受け入れた。この車中泊の旅が見せる様々な風景は美しい断崖絶壁の風景もあれば突然の大事故もある。テレビが見せる絶景も、そして倉敷の被災の報道も嘘だとは言わないが本物ではない。絶景はオレが行ってもそう簡単には姿を現さないし、被災地のパトカーの多さや怒ったような人々の表情はテレビには流れない。

姫路の手前だっただろうか。クーラーをいっぱいにして走ってやっとどうにか凌(しの)げている状態だった。車がスーと対向車線に傾いていく感じがして気がついた。居眠り運転だったか。少し前から自分の反応が鈍くなっているから危ないどこかで休もうと思っていた。でも眠たいわけではなかった。それが意識をなくしていた、寝ていたのだろうか。寝ていたということなのだろうか。まあどっちでもいいが、「これが暑いということなのか。」と認識を新たにした。気をつけよう。

今日の宿は京都北部、美山北のかやぶき集落の駐車場を予定していた。かなりの高地で山奥だから涼しさが期待できる。450km走って6時過ぎに着いたが広々とした駐車場は車も疎(まば)らでおみやげやさんも終わっていた。まだ30℃はあるけれどこれから気温も下がって、どうやらいい夜になりそうだ。

7.17

明けてゆく美山のかやぶき集落をぼんやり眺めながら人間の暮らし方について考えていた。どこの田舎も若者が町に出て過疎化が進む。旅に出ていると人が住まなくなった住居にたくさん出くわす。目の前にあるこの家に暮らしたらどんな人生が待っているのだろう。都会での華やかなモノにあふれた暮らしはないけれど、豊かな自然に囲まれた四季の味わいのある暮らしがありそうだ。

田舎の都会・松山に住んでこうして旅に出ていると、自分はちょうど都会と田舎の真ん中あたりで生きているのだと感じる。自分の生きる場所を無意識のうちに決定していたのかもしれない。

日本海の小浜に出て敦賀から鯖江(さばえ)まで走った。35℃の厳しい暑さが早くも降り注ぐ。鯖江のスーパーで今日の食材を仕入れたが、今回の旅では60Wの冷蔵庫を出来るだけ使わずクーラーボックスと水筒でやってみたいと思っていた。有限の電気を数本のビールを冷やすくらいで使うのはもったいない。スーパーで氷を貰いクーラーボックスと水筒に詰め込んでみた。ビールと肉類を上に乗せ夜の晩餐を楽しみにした。

鯖江から九頭竜湖を抜けて今日の目的地、奥飛騨を目指した。険しい道を走ることは覚悟していたが、今回の豪雨の影響はあまり気にしていなかった。何ヶ所の通行止めや片側通行に出くわしただろう、20ではすまない。この暑い中、どこも旗振りのおっさんが頑張り、迂回路がきちんと表示され、重機が動き復旧作業が進む。やはり日本は豊かな国だ。

厳しい道のりだったが、400kmを走り6時過ぎに奥飛騨温泉郷、荒神の湯に着いた。25℃、期待通りの気温だ。これで今日の疲れはぶっとぶ。早速、ビールを出してみた。これも期待通り,いや期待を大きく上回る冷え方だ。水筒の方はオンザロックも出来そうだ。車の冷蔵庫は60Wも使うくせに冷えが悪くて不満だった。クーラーボックスから取り出した水も滴る缶ビールはシャキッと冷えていて文句なし。これで旅の方法がまたひとつ変わる。冷蔵庫で使わなくなった電気は照明にもパソコンにも扇風機にも余裕が生まれる。

7.18

朝3時を回ったあたりで目が覚めた。「乗鞍のご来光バスは確か35分発だったような。。」

北アルプス山脈の名峰、乗鞍岳は一度行ってみたいと思っていたが、百名道・乗鞍岳スカイラインが自家用車規制されていて自分の車では入れないのだ。どうしたらいいのか。昨夜、ネットで調べていて、山頂までの送迎バスの存在や時間帯などを理解した。その中にご来光バスという企画があることを知ったがその時はあまり興味を持っていなかった。

ぼんやりした頭の中で「ご来光バスか、天気もいいし、せっかく登るんだから日の出が見れたらそりゃその方がいいかもしれない」と考えた。間に合うのかなと、改めてネットで調べ直すとぎりぎりで乗れるかもしれないと分かった。慌てて動いた。真っ暗な山道を20`、かなりのスピードでバス乗り場に急いだ。3時24分に着いた。身支度してカメラを持ってバスに乗り込んだ。間に合った。

午前3時35分。誰一人しゃべらない30人以上もいる乗客を乗せたバスは45分かけて山頂までゆっくりゆっくり登って行った。少しずつ山の稜線が見えてくる。遠くに槍ヶ岳の先端も見えるようだ。オレはこんな時間が大好きだ。山頂の数百メートル手前でバスが停まり、乗客は全員降ろされた。ここはどこ?外はぼんやりと明るくなっているが寒い。いちおう長袖は着たのだがまさかウインドブレーカーは要らないだろうと着なかった。先に降りた人たちが歩き出したので後についていく事にした。50mくらいで右の山に行く人と左の山に行く人と別れ出した。どうしようと思ったけれど左の山の方が低そうだったので左にした。なんにも準備していないから何にも分からない。それでもどうにかなっているのが可笑しくて黙々と登った。いや、フーフー息を切らして登った。山頂にたくさんの人がいた。その中に混じって日の出を待った。少し雲が出て完璧な日の出にはならなかったが十分な美しさだった。

後から分かったが、左の山が大黒岳、右の山が富士見岳、そしてバスの停まっているところが畳平。どれも乗鞍岳では有名地点だった。大黒岳から畳平まで降りていく途中でお日様の暖かさで救われた。畳平付近のお花畑で木道を散歩して高山植物を見せてもらって終わりにした。剣が峰まで1時間と少しくらいと書いてあったがもう足が限界だった。

安房峠から松本に出てガソリンを入れ買出しをして、また走り出した。この日は信州最北端の志賀高原を目指した。昨年、白根山が噴火を起こし大きな被害が出たところだけれど、ここにまだ行っていない百名道・志賀草津道路というのがあった。ネットで調べてみると火山活動警戒レベルが高く通行できないと書かれているけれど、周辺の道路には走れるところもあるみたいで駄目で元々と行く事にした。

昔、バス旅で世話になった小布施というところから志賀高原に入った。やはり通行止めの案内はあった。でも、奥志賀高原にはいけるとか書いてある。同じ百名道の本に奥志賀林道という道もあって、ならばこっちにしようと決めた。ところがこの道もずっと出口の方で通行止めと書いてある。そんなこと知るか、もう行けるところまで行ってやる。この辺の無茶な感覚が危ない。離合出来ないような一車線をどんどん入っていった。太陽が今日の終わりを告げようとしていたがまだ先の見えない状態だった。いつもなら不安がむくむくと襲ってくる時間帯なのだが、「暗くなったらそこで止めて寝る。」と覚悟していたからか、気持ちよく進んだ。分かれ道に標識があった。片方には通行止めが書かれておりアウト。でももう片方はカヤノ平というキャンプ場から飯山という町に降りられると読めた。この手の無理は何度も失敗しているのであまり期待はしていなかったけれど、久々の成功に気持ちよく、平地を見つけて一夜の宿にした。これも車中泊の醍醐味のひとつなんだ。

7.19

夜はタオルケット一枚では寒く、肌掛けを出してもぐった。涼しく気持ちよく寝た。ここまで大きな失敗はない。こんなことは珍しい。そろそろ危ないから気をつけよう。昼間のうちに町に出て食材を仕入れ、暗くなるまでに移動して山に篭るというパターンは今回の旅では変えられない。問題は走る距離と山の高さだ。昨日はなかなかヘビーだった。うまく行ったから良いものの失敗していたらおおごとだった。

今日は新潟近くの奥只見湖という湖が目的地だった。百名道の本に面白いことが書いてあるので抜粋させてもらう。

「全長22kmのうち、約18kmがトンネルという変わった道路が奥只見シルバーライン。奥只見ダム、大島ダムを造るためにダム建設の輸送道路として電源開発が切り開いた道路で、トンネルの数は全部で19、現在は県道50号線になっている。」

へえ、そんなもんかいってくらいにしか考えずに、今夜は涼しい湖の湖畔で熟睡だってなもんだった。距離もあまりないからいつものスーパーで遊んだりして。

えー、スーパーの遊び方ついて解説いたします。まずは、財布も何にも持たずに品そろえを見物に行きます。財布を持っていると買っちゃうから持ちません。夕涼みならぬ、スーパー涼みです。昼食を食べるテーブルはあるか、氷はあるか、ゴミを捨てることが可能かなどは見逃してはなりません。もちろんスーパーによって価格差は大きいのでその辺は大切ですが、それぞれで売りの商品が必ずあるので、それが今日の自分のニーズと合うかどうかは大切です。豚肉全品半額なんて日に入っても、ポイント5倍セールの日に入っても関係ないと不愉快になります。弁当3割引きなんてのを見ると目が輝きますねえ。これで予定のメニューが変わることもしばしばです。次に一回目の買い物に入ります。予定していたものを少しだけ買います。特に、昼食をここで食べるときには初めにこれを決めてしまいます。

スーパーの遊び方について書き出すと終わらないのでこれくらいにします。そんな訳でちょっと不安を抱えながら奥只見シルバーラインなる道に、いやトンネルに入っていきました。感覚的には22km全部トンネルだったと言っても過言ではありません。奥只見湖は一度も目に入りませんでした。トンネルを出たらダムの外で、そこにあったのは300台くらい入る馬鹿でかい駐車場だけ。そこから奥に行くことも横に入ることも出来ません。ただの山奥です。何にもありません。それに標高がそれほど高くないのでかなり暑くてイライラしてきます。どうにか木影に車を停めてしのげることが分かったのでここで一泊する事にしました。あの暗くて汚いトンネルをもう一度通る元気がなかったというのが本音です。こんな百名道も楽しいです。はい。

7.20

新潟の近くに行っていない百名道がひとつだけ残っていた。この際、ちょっと遠回りだけれど寄っておこうと動き出した。嫌なトンネルはよそ見をしながら走りぬけた。弥彦山スカイライン。なかなかいい名前だ。

カーブを曲がるごとに日本海が広がってくる。変化に富んだ道だが展望もすばらしく、山頂は東側に蒲原(かんばら)平原、西側には日本海が一望でき、佐渡や遠くは能登半島までも見渡せる。

またまた本文からの抜粋です。へえ、期待できるじゃんと思ったのが間違いです。この本の著者は写真家でわりと淡々と書くことが多いのですが、ここの件(くだり)はちょっと不満です。というか、この日はがんがんに暑くて晴れてはいたのですが、霞んでいてすぐ下の海岸線ですらよく見えない状況でしたので仕方ないのかもしれません。佐渡も能登半島もなんにも見えませんでした、ハイ。

さて、気を取り直して桧原湖を目標にして走り出した。もちろんスーパー散策はしっかり楽しんだ。でも今日のスーパーは食事のテーブルがなく、カップヌードルにさとうの御飯でカレーをチンして食べる予定だったワタシとしてはとても困った。レンジは自分の車に搭載できないのでスーパーのものを利用している。車の中は45℃はあるという状況なのだ。もう予定を変更するキャパシティが残っていなかった。なんとエンジンを掛けて2つのクーラーを全開にしてカップヌードルのためのお湯を沸かし、車の中で汗だくになって食べた。なかなか出来ない経験だった。もちろん、その後すぐに涼みにスーパーに入ったけれど。
  弥彦山スカイラインでがっかりしたけれど、新潟から桧原湖までの田舎道は最高だった。会津周りを予想していたのにナビが途中で左折を要求した。オレの予想ではそっちは山の中だぜと思ったけれど、面白そうだから入っていった。一車線の細い道、突然の離合できない集落の道、と思ったら中央線もない真っ直ぐの大きな道、何の指示もないシフトダウンしても危ない急なのぼりのS字カーブ。周囲はたんぼと雑草地で不思議と道路標識は極端に少ない。大きな矢印や「危険」なんて文字がひとつもない。こんな道が60`も延々と続く。どこかに宮古そば街道と書いてあった。気に入ったから、この名を私だけの百名道に命名しよう。

桧原湖は私のお気に入りで何にもない磐梯山が見えるだけの美しい山の中の湖だ。ここを今日の宿にしようと思っていたけれど、どうにもそうとう暑い。こりゃ駄目だと、予定を変更して百名道・西吾妻スカイバレーに乗った。前回は積雪で通行止めだった。今回は豪雨の後で心配だったが、気持ちよく入れた。1400mまで一気に上がって峠の駐車場を宿にした。

7.21
 今日は蔵王まで行けばいい。80kmを残すだけだ。朝は11時までだらだらと過ごした。汚れてきた窓や室内なんかを掃除したり碁を打ったりしていた。昼に合わせて米沢のイオンに入り3時までじっくり豪華なスーパーで遊んだ。

さあ蔵王だ。さらさらと前回通行止めで無念を飲んだ蔵王エコーラインを登り、今回こそは「お釜」の展望リフトに乗るぞって、身支度を整えて乗り場に行ったら「本日の営業は終了したしました。」って書いてある。「嘘だろ、さっきリフトに人が乗ってたぞ!」って思って時計見たら、4時2分。どうやら4時で終了らしい。ああ、今回も「お釜」は見れないのかって、窓の向こうのおばちゃんに愚痴ったら、「有料ですが、道路がありますよ。」ってさ。リフトが740円。道路が540円。なんだか狐につままれた気分でふらふらと駐車場に停めた。

いつ噴火するか分からないから池までは降りてくれるなと書いてある看板は迫力満点だ。荒涼とした岩石の尾根伝いに雲が流れる五色岳を右に置いて不気味に静まり返るお釜の池の水は期待通りに美しかった。

7.22

頭から布団を被って寝ていられる涼しさが当然のように感じられる。旅に出てからずっと涼しい夜を過ごしている。お釜の駐車場は朝の9時になっても霧雨の中だった。涼しくて文句が言いたくなる。

日本中暑さで苦しんでるって嘘だろ!とか何とか。

でもそんなこと、ちょっと車を走らせたらすぐに分かった。蔵王を降りたら即、日差しが戻ってカァーっと暑くなった。やっぱりこれか。忘れてたわ。とか思っても、もう先に進むしかない。今日は福島から磐梯吾妻スカイラインに乗るのだ。あの荒涼とした風景が何物だったのか確かめたいと思っていた。福島にはなぜか寄りたくなる温泉がある。飯坂温泉。初めて来た時に原発の事故で被災者は潤っているんだと言った居酒屋の女将が思い出されるからかもしれない。今回も通り道なので寄ってみた。あの赤提灯はまだあった。風呂は1380円ってのを見て洒落じゃないって止めた。

百名道・磐梯吾妻スカイライン。去年の秋は感動した。まだマグマが目の前で動いているのではないかと思わせる風景が続く道は迫力があった。今年もあちこちに黄色い煙が見えたが去年ほどの感動はない。頂上の駐車場が有料だったのを見てもっと興が醒めた。もう涼しいだけで十分と平らなところを見つけて寝た。


7.23

磐梯吾妻スカイラインから会津に抜ける道が美しかった記憶があって楽しみにしていた。右手に磐梯山を眺めながら広々とした田園地帯を下っていくのだが、やはりオレはこんな道が好きだ。実は、昨日この旅初めてのハプニングがあった。大切に使っている400wのポータブルバッテリーが通電しなくなってしまった。ACコードが座席シートに挟まっているのを知らずにパソコンに繋いだらブチって壊れてしまった。さてどうしたものかと考えていたけれど、200wのもうひとつのポータブルバッテリーで当座は凌(しの)げると分かって、気を取り直した。

会津でハードオフに入ってパソコンのバッテリーについて相談したが親身になって説明してくれたのが嬉しかった。こんな時は人の温かさが沁(し)みる。松山より商品の数が多く、楽器からステレオのアンプ、コンパクトデスク、DVD、タイヤ等の車関係、家電、家具などなど。楽しくてさださんの初期の頃のレコード一枚と、長いこと聞いてなかったラフマニノフのピアノコンチェルト2番のCDを買った。面白かった。

私の個人的に好きな百名道にこの会津から日光までの西会津道路がある。3回目か4回目になる。徐々に登っていく両側を山に挟まれた道は、こんな暑い日にはどれくらいの高さでどれくらい涼しくなるかなんて楽しみもあっていい。ラフマニノフは3番を聞きだしてから2番はご無沙汰だった。持っていたCDもどこかに失くしていた。3番のちょっと不思議な音楽も慣れると美しかったが、こうしてまた2番を聞いてみると雄大なスケールが変わらず魅力的で旅にはピッタリだなあと惚れ直した。途中から、百名道・霧降高原道路に入った。去年は雲が重くていまいちだったが、今年はすっきり晴れて、牛たちが気持ち良さそうに歩いたり草を食べたりしている。真っ白な柵が延々と続く牧場ならではの景色は目に柔らかい。

道はそのまま日光に入っていくのだが、外国人が多い日光には興味はない。ただ去年見損なった本物の華厳の滝には寄りたかった。滝もいろいろ見てきたけれど、なるほどこれが華厳の滝かと納得した。水の量の豊かさ、落下の長さ、見える角度や距離、周囲の木々の配置。そんなものをじっくり眺めて他の滝と何が違うか観察してみた。分かったような気がした。実に存在感がある(本当かよ?)。

これまた、過去に2回とも見ることが出来ていない中禅寺湖展望台からの男体山。今日こそは見てやるぞって登り口まで来たら,通行止めのゲートがガチャンと閉まっていた。今度は何と思ったら、登れるのは朝7時から夕方5時までだって。5時半周っていてはしょうがない。諦めようかと思ったけれど次回がいつになるかも分からず、「よし、さっきの中禅寺湖の湖畔を宿にして明日の朝にもう一度来る事にしよう。」って決めて決着がついた。夕焼けに沈んでゆく中禅寺湖と男体山。いい時間を過ごした。

7.24

ゲートは7時には開くというから、それまでにゆっくりやることやっていい朝飯食った。明けてゆく中禅寺湖もしっとりとした佇(たたず)まいで見ていて飽きることがなかった。8時前になってしゃかしゃかと展望台に上がった。雄大な男体山を右手に置いた透き通るような中禅寺湖。正面にはあの白根山といつも通る金精峠があるらしい。3回目にしてついにこの風景を見ることが出来た。

 思えば周囲には誰もいない。少し暑いがこれは歌える。ギターを出して小1時間、すばらしい景色をバックに下手な歌を連ねた。

戦場ヶ原、湯の湖、幾つかの手つかずの大きな沼を抜けて沼田に出た。ここも暑い。しっかり35℃だろう。そういえば昨日は熊谷で41.1℃の過去最高気温を更新したとか。何にもめでたい事でもないのに、テレビでNHKが騒いでいた。スーパーで氷がなく保冷剤でごまかされたビールは夜まで冷えているか心配だが、まあ平和な心配だ。今日は榛名湖に決めていた。標高があまり高くないので心配だったが、深い木立に囲まれた湖畔はたくさんのキャンパーで賑わっていた。私もこそっと小さな空間に車を入れて仲間入りさせてもらった。

夕方になり、頃合いを計って榛名温泉の世話になった。大きな温泉だったけれど客はオレともうひとり。これで食えるのかねえと心配になったけれど、平日なんてこんなものかもしれない。湖畔の夜はいつものように酔っ払って過ぎていった。


7.25

今日は富士山の麓。田貫湖まで行きたい。200km少しくらいか。距離があるので、この旅はじめての早朝に動き出してみた。明けてゆく旅の風景はやはり心にしみる。ナビに道を聞いたら佐久を通りたいなどと言ってきた。オマエな、佐久って諏訪湖の方だろ、相当の山越えになっちまうだろ。ダメダメ。関東平野の北側を探しなさいって言ってやったら、高崎から秩父なんて道を教えてくれた。かわいいヤツだ。

予定していた道のひとつに、百名道・雁坂峠ってのがあった。埼玉から山梨・甲府に抜ける唯一の道で6600mの山岳トンネルが開通して通行が可能になったとか。どんな道だろうねえと、楽しみにしながら秩父の山道をゆっくり上がっていった。今回の旅はどうしても山道の上り下りが多い。車にもタイヤにも負担の少ない運転をするようになっていった。するとどうなるか。答えは、観光バスの運転に近くなる。エンジンブレーキを多用して、時にはローまで入れて普通のフットブレーキは出来るだけ使わない。トップで登れそうな道でもエンジンの負担を考えてセカンドで登る。くねくね道はゆっくりゆっくり。後ろから忙しそうなやつが来たらさっさと脇に避ける。豊かな心になれるってなもんだ。

雁坂峠が730円も取る有料道路だって知っていたら来なかったのにと、ぶつぶつ言いながら長いトンネルに入った。それでもあの奥只見の工事用のトンネルとは違い走りやすかったから合格としておこう。山の上にこんな大きなトンネルを作ったんだから730円くらいは負担しないと申し訳ないか。

甲府のイオンでゆっくりした。甲府も暑かったけれど、イオンの中は快適。食事用のテーブルもソファもあちこちにたくさんのスペースが用意されていて、同世代のおっさんやおばさんが涼みに来ている。中には口を開けて寝ているヤツもいる。氷もたくさん用意されていて有難く一人前だけ頂いた。昨日は、やはりあまり冷えていないビールで我慢せざるを得なかった。もう保冷剤しか置いていないスーパーには行かない。

甲府に入っても富士山は見えなかった。精進湖に上がっても本栖湖に入っても見えない。今回もなかなか出てこないようだ。本栖湖で休憩と思って入ったら、無料のオートキャンプ場があった。杉林の間に、幾つかの車が入り込んでそれぞれ思いのままにキャンプを楽しんでいる。こりゃいいぞって停めてみたけれど、ひとりではどうにも楽しくない。キャンプグッズも出す気になれず、こりゃ駄目だと諦めて、田貫湖に向かった。

途中、何度か世話になっている風の湯で汗を流そうとしたのだけれど、どうにも風呂道具が見当たらない。昨日の榛名湖で忘れてしまったらしい。まあ、100均のオケとシャンプーそれに使い古した垢すりだけだ。ずいぶんボケたものだと諦めて、タオルひとつ持って入っていった。と、そのはずなのに湯船に浸かって、首をのせていたタオルを取ると2つある。最近愛用のタンポポのかわいい図柄と時々使う赤いストライプが入ったのが重なっている。これは何だ?オレのボケはついにここまで来たか?間違ってふたつ持って来たか?

目の前で、ふたりのおっさんが世話話をしていた。この手の話はオレの経験では方言が強くて大抵聞き取れないと思ったら、全部分かる。「あのね、○○がさ。」はっきり聞こえてくる。返って驚いたけれど、ここは静岡,関東弁の地方だもんねと納得。このひとりのおっさんの横にはタオルがあったけれど、もうひとりのおっさんの周囲には何にもない。もしかしてこの赤いストライプの方はあのおっさんのモノかもしれないと、シラーっとして場所を変えて観察していたら、おっさんはそのタオルを持ってのこのこ出て行った。

やったあ、オレのボケはまだ重症じゃないって喜んだ。

何度も世話になっている田貫湖。表側に大きな駐車場があってそこから見える富士山はなかなかいい。でも今日は、富士山は見えないから裏側にある湖が見えるお気に入りの小さな駐車スペースにした。暮れかかった湖面を眺めながら飲む冷えたビールは格別に旨かった。


7.26から30まで

朝10時半に新富士駅で女房と合流し、ふもとっぱらキャンプ場で息子夫婦と3人の孫との2泊3日のキャンプがあった。その後、横浜に住む娘のところに行って一晩しゃべくった。それぞれ楽しい時間だったが、私の旅とは質が違うので詳しい記述は止めとく。

ただ、こんな企画は変化があって良いかもしれない。


7.29

昼前に女房を近くのJR駅で降ろして、また旅が始まった。大都会の関東平野の下道を走ってみたくて、八王子から青梅と進んだ。関東平野も相当外れの方なのに、どこも車と人間で埋まっている。私の一番嫌いな進まない車のテールランプを見ながら無謀なことをしたと反省したが、時すでに遅し。50kmを2時間かけて青梅街道に入った。

百名道・奥多摩道路を走っておこうと思っていた。奥多摩湖に上がろうと思ったらいつもお世話になっている「通行止め」の標識が目に入った。「まあいいや、駄目なら駄目で。」そう思ってしまったら訂正が効かない。それから5.6回も標識を見るのだけれど完全無視。上がるところまで上がって目の前に「通行止め」の看板を見ないと納得が出来ないのだ。東京には、どうやらそんな曲がった根性のヤツは少なくないようで、上りも下りもたくさんの車とバイクにすれ違った。だから状況が読めないんだよって言っても仕方がないか。

まあ、昨日は台風だったからこんなところのあるかと諦めて、次の旅を進めることにした。青梅に戻ってもテールランプは見たくないから、険しい道を下って山梨の方に出た。実は今日は、名古屋の近く、茶臼山のつもりだった。でもこりゃ無理。そろそろ宿の心配をしなくてはとナビに聞いたら都留市に何かある。ツルと読みます。富士山と甲府と御殿場なんかに挟まれてマイナーな感じだけれど、東京の管轄は道路も駐車場も杜撰な管理だったのに、山梨県に入ってからは、観光客を大切に扱っているなあと、たいしてお金を落とさないくせに偉そうに比較検討を加えてみた。ともあれ、都留の芭蕉なんとかの湯ってのがあったので、そそくさと行ってみたら、700円。女房子どもにボロボロにされた身には700円はイタイ。諦めて周囲を見たらそれなりに整備されている場所のようで、ちょっと洒落た屋外コンサートのステージなんかもあって、「もうこれで充分!」と、夕焼けの北アルプスなんて眺めながらまたまた一時間ばかり歌って、この日も夜も過ぎていった。


7.30

水がない。2ℓのペットボトル6本を使い果たし、飲み水がなくなりかけていた。どこかの名水なんかゲットできたら嬉しい。こんな邪(よこしま)な発想が良くないのだが、富士山の裾野なので、つい名水の情報に右往左往する事となった。午前中走り回って、失敗に失敗を重ね、無駄な時間を費やした。あきらめて茶臼山に向けて走りだしたら、すぐの道の駅であっさり12ℓをゲット。有難いやら申し訳ないやら、情けないやら。うむ、情けない!が一番か。

時間を押してしまったと感じて走る展開は後が恐いが、諏訪湖の前から南アルプスに入り、高遠に出た。春に高遠城址の桜を見たことがあった。今でもあれ以上の桜は見たことがないと思っている。あの桜を見て以来、あまり桜で騒がなくなってしまった。もう究極を見てしまったということか。そんな高遠から中央道を南下したが、国道じゃつまらないので、一本南アルプス側の小さな道を走ってみた。そうしたら予想通り、大きな山に囲まれた美しい農村の風景が行けども行けども続いていた。そりゃ前が中央アルプス背中が南アルプスだもんね、こんな風景が見たくて旅をしているんだと、周囲に迷惑がかからない程度にゆっくりゆっくり走った。幸せだった。

飯田あたりから山に入り続木峠とかいうなかなかヘビーな山道を越えて茶臼山の頂上についた。でも、スキー場界隈は駐車場も立ち入り禁止で閑散としているし、休暇村・茶臼山は宿泊者だけの雰囲気だ。どうにか展望台をみつけて宿にしたが、あまり美しいものは見れなかった。


7.31

さて今日は問題の名古屋越えだ。大都会・名古屋は早朝に抜けるのが一番なのだが、この涼しい時間を運転に使いたくはない。まあどうにかなるだろうと覚悟して入っていった。FEELというスーパーで中華の惣菜をバイキングのように、どれを取ってもまとめてグラムで売っていた。面白くて、昼食も夕食もこれにした。こんな企画はスーパーでは初めてだ。

さて名古屋だが、やはりこの都市を一般道で昼間に抜けようとしてはいけないようだ。関東の八王子と同じだ。道も信号もよく整備されているけれど、なんせ車が多すぎる。四日市に抜ける頃にはへとへとになっていた。

実は、この日は停める山を決めていなかった。明日は伊勢志摩に入りたいのでぼちぼち海沿いを南下して鈴鹿か津で山に入ろうと思っていたけれど、やはり地図にあるように鈴鹿山脈は海からそこそこ遠い。津市でなんとか自然公園というのがあるからその辺を楽しみにして行ったら、全然アウト。JRの関連施設で文句ばっかり。だから官庁は民間を超えられないんだよ、クソッ。しょうがないから途中で看板を見て「これだと」思っていた火の谷温泉(名前がいい)に17kmも走っていってみたら、殆ど廃墟じゃないのっていうホテル。民間もたいしたことないな、ボケッ。もう何でもいいと、通行止めと書いてある桜峠なる山の中に入っていって、どうにか平らなところを見つけて宿にした。川の音がちょっとうるさいかもしれない。まあ。こんな日もあるさ。


8.1

走りたい道があった。日本百名道№73パールロード。絶景の伊勢志摩のリアス式海岸を走り抜けると書いてある。この旅を始める時から行けたら行きたいと思っていた道のひとつだった。そしてこの旅では初めての海岸線となった。真夏の海岸線は暑い。覚悟して入ったがやはり暑い。でも、内陸とは違って35℃などにはならない。32℃くらいかな。この差が大きいか小さいかは知らないっと。まあ牡蠣の看板ばかりたくさんみて走った。牡蠣が本場でも、もうちょっと何とかならないのってなもんだ。まあ、予想以上に田舎で牡蠣ばっかりといった感じか。自然がたっぷりってのは嬉しいねえ。来てよかったとは思った。まあ、期待して入るとこういうことはよくある。

さて、次がなかった。いくつか候補はあったのだけれど、距離もコースもいまいちだった。紀伊半島を堪能したいと言う思いで調べるのだが、どれも気に入らない。ちょっと大阪まではどれくらいの距離なのかな?ってナビに聞いたら193`ときた。他のコースより100`短い。よしこれでいってみよう。

予定が決まると目の前が見える。ちょっと見渡すと、海に入るのはピッタリの景色ではないか。この歳でいうのも気が引けるが、チャンスがあれば海に入りたい。車中泊の喜びのひと欠片(かけら)に入っている。でも現実は難しい。まず人がいないこと。車を置いて迷惑がかからないこと。これだけでたいていの海水浴場は無理。ちょっとした入り江もなかなか車が止められない。ところが目の前に、設えてあるような駐車スペースと誰もいない海岸線がひろがっている。おそるおそる海岸に近づいてみたがやれそうだ。海水パンツに着替えて伊勢志摩の海で思う存分、海水浴を楽しんだ。いやちょっと違う。思う存分海に浮かんでいた。うん、これだ。

さて、大阪までの193`だが、危険な雰囲気は感じていた。相手は天下の紀伊山地だからね。海から上がって走り出したらすぐに右折、山に入った。500mも行かないで離合の難しい一車線になった。「ああ、このパターンは危ないなあ。」と危険を感じたが、通行止めの看板は道端で横になって遊んでいる。ならば行けるということなのだろうと、覚悟を決めて進んだ。それから13`。ずっと急な上りの登りの一車線。ギアはトップには入らない。ずっとセカンドのシフトで時速20kmくらいの狭い道がくねくね続いた。側溝に落ちたら即アウト。対向車とは間一髪でブレーキ。どちらかがバックして離合場所を探す。13`これをやったら目がしばしばして、心が折れそうになった。でも、天まで昇る訳でもない、そのうぢ平らになるさって思って、急がずにだらだらしていたから割りと楽しかった。一応、平らになってからもいろいろあったけれど、山の中に暮らす集落や大きなダム湖の周辺を走り、これぞ紀伊山地っていう自然を腹いっぱい味わうことができた。大阪が近くなったところで終わり。国道を一本横に入るような道を見つけるとたいてい静かな場所が見つかるもんだ。今日も川の音を子守唄に山あいの集落を眺めて日が暮れた。


8.2

1時半に目が覚めた。少し早いけど一気に動き出した。大阪越えを夜中にやってしまう事にした。北関東や名古屋のような煩わしい思いはしたくない。大阪の夜中の信号は本当に気持ちが良い。4個くらいずつちょうどよく変わるので実に気持ちよく走れるのだ。これに比べて神戸は全く駄目。明らかにワザと意地悪をしている。嫌なら高速に乗れという意味だろうか。ともあれ3時間で淡路島サービスエリアについてサクッと寝た。ああ爽快。

前回楽しく過ごした淡路島のイオンに寄ったが早くて開いていなかった。それもあるけど雑草が生えて汚くて、こりゃ長くないなあと感じた。すぐ隣にあったスーパーと薬屋とダイキが合わさったようなでかい店に入った。朝の8時だというのにものすごい活気だ。ああ、イオンはこいつに負けたんだなあと、納得。民間の栄枯盛衰は実に激しい。

ともあれ、風光明媚な淡路島を走りぬけ、徳島を抜けてそそくさと剣山に入った。この暑さを和らげる場所は剣山しかない。またくねくね道をだらだら上って人心地ついた。

ゆっくりと昼の休憩を取り、夕方までにはふれあいの郷に着きたいと動き出した。いよいよ剣山を越えなければならない。また一車線の細い道を覚悟していた。

ところが、先ほどから雲行きが怪しくてポツポツ降っていた雨が、ここに来てものすごい大降りになった。夏の夕立ですぐに止(や)むだろうと走っていたが、30分くらいも経つと、くねくね道のあちこちから大量の水が噴出し、道を覆い出した。この山道と大水の景色は経験がなかった。大量の水のエネルギーが道を塞いだり、横断したり、大きな石を動かしたり、側面の岩盤を滝のように流れ落ちたりして伝わってくる。まるで意思を持つ生き物が人間の作った道を破壊しようとしているかのようにみえる。停めて写真を撮りたいと思うが、一旦停めたら動けなくなしそうでひたすらゆっくり車を動かした。いいものを見た。

やっと小降りになり峠もすぐそこというところで、どこにも予告のなかった片側通行の通行止め。旗振りのにいちゃんが事もなげに、「20分ほど待って下さい。」だってよ。おいおい20分かい。簡単に言ってくれるね。でも、車中泊の強みは後ろの居住空間に入ってしまえば20分でも30分でも軽いもんさ。ネットを開いてアイスコーヒーでも飲んでいればいいのだ。

剣山の山奥にあるいやしの温泉郷はオレのお気に入りのひとつだ。静かで広々としていてお湯がよくて人が少ない。今日もオレひとり。こんな施設を思う存分使わせていただく光栄に感謝。

うまいビールを飲んでスコンと寝た。

8.3

暑い夏の車中泊はどうなることやらと思って始めたけれど、案外に快適な旅ができたように思う。昼は街中に下りて35℃の暑さの中でスーパーやイオンでゆっくり遊び、夕方までに1000m以上の山を見つけて宿にすると大自然の涼しさ豊かさを味わうことになる。

問題は走る距離と坂道との付き合い方だ。長く走るのはしんどいし適当な山をみつけるのは簡単じゃない。坂道の運転はエンジンにもタイヤにも負担が大きいのじゃないかと心配になる。まあ、こんな旅をしていたら、それくらいのことは仕方がないか。

中禅寺湖の一泊、奥只見湖の一泊、津の桜峠の一泊。どんな宿も楽しかった。





私的キャンピングカーの旅の方法


2017.11.28
 
 キャンピングカーに乗って車中泊を始めて6回目の秋が終わろうとしている。今年も、春の桜の頃に15泊で青森・弘前へ行き、秋の紅葉の頃には21泊で青森・白神山地まで行ったのを中心に70泊ほどの旅をした。これまで何度か旅日記のようなものは書いてきたけれど、今回は私の旅の傾向、興味関心などをまとめて残してみたい。
 
 車中泊はキャンピングカーがなくてもできる。高速道路のサービスエリアなどで普通の乗用車に乗って後部座席にシェラフなどを積み込んで旅をしている人を見かけることが多い。これも立派な車中泊だとは思う。でも狭くてでこぼこで大変だろうなあと想像はつく。それでも車中泊で出掛けたいと考える人が多くなっているとは感じるし嬉しい。また、エルフなどのトラックの後部座席に居住部分を載せたキャブコンと呼ばれる車での旅をしている人も多い。一般的にキャンピングカーのイメージはこの車種をさしているようだ。車中泊仲間の憧れの車種と言える。
 そして、一番多いのは私の乗っているハイエースなどのワゴンタイプの後部座席を生活空間に改造したものだ。冷蔵庫や炊事場をつけて売られているものは8ナンバーで始まる特種車として扱われる。普通車は3ナンバーがついている。他には、道の駅などまれに見かける中型バスのバスコン、トレーラーで引っ張って走るものもある。
 キャブコンは本格的だが日常では使えないからもう一台車が必要になる。ワゴンタイプならば日常使いには少々大きいけれど、無理すれば使えないこともないと考えてこの車にした。長い間考えて決めたことなので今になってもこの車に不満はないけれど、洒落たキャブコンを見るとちょっとだけ悔しい。

 車の改造を生きがいにしている人が結構いる。3ナンバーの場合だと居住部分が何かと貧弱なので手を加えだしてしまうとか、小さい軽自動車に乗って狭い居住部分をいかに快適にするかに頑張る人もいる。私の場合は、中古の安普請だけれどそれなりの8ナンバーのキャンピングカーなのでそのまま何にも手を加えずに使えている。
 それでも電気系統ではちょっと頑張った。キャンピングカーの居住部分は車の本体とは関係ないバッテリーが積まれている。本体をメインバッテリー居住部分をサブバッテリーと呼んでいる。サブバッテリーはメインバッテリーの余った電気から充電するけれど、エンジンが切れている状態では充電できなくしてあるのでメインバッテリーの電気は保護されている。
 初めの頃は何にも知らなかったけれど、このサブバッテリーは結構な価格なのに消耗が激しくて使い勝手が悪かった。古いタイプのディープサイクル(鉛)バッテリーというのが積まれていた。それなりに勉強してハイブリットなどで使われているリチウムイオンバッテリーを使ってみたが、使用している電力が表示されていてすぐ分かるとか残量が分かるとかとても使いやすくなった。加えてソーラーパネルからも充電できるので、晴れている日にはスーパーで買い物をしている間に残量メモリがひとつ上るなんて楽しみも覚えた。ともあれ、キャンピングカーの暮らしでは電気は自分でコ-ントロールするもので何の不安もなく使える家庭の電気を改めて素晴らしいと感じることになった。

 車中泊の旅の方法は様々だ。観光地巡りもいいし、キャンプ場でバーべキューもいい。車中泊仲間との飲み会も楽しい。私の場合、一人旅と女房との旅ではその方法ががらりと変わる。一人旅では、観光地は殆ど興味がなくなり一般道をだらだらと走って山・川・海・湖などの景勝地を探してしまう。近年見つけた絶景を走る・日本百名道(須藤英一著)はこんな私のバイブルになっている。一度走れば満足すると考えていたが、春に走れば秋にも走ってみたい。雨でいまいちだったから晴れた日に走ってみたい。夕焼けの頃にはこの風景はどんなに綺麗だろうなんて想像すると絶対もう一度来たいなんて考えることになる。この秋、信州諏訪湖から上った百名道・ビーナスラインの霧が峰では正面に富士山を据え左に八ヶ岳連峰右に南アルプス後ろに中央アルプス・北アルプスなんて壮大な景色をただ黙って眺めた。こんな風景を知ると何度でも来たくなる。
 それから、断崖絶壁の駐車場とか人里離れた湖の駐車帯を一夜の宿にして、暮れてゆく風景を肴にビールを飲むとか碁を打つとか、フォークギターを引っ張り出して夜長にジャラジャラ歌うとかいう時間が至福の時だろう。もちろん山の中の苔むした温泉は大好きだ。
 でも、毎日がこんなにいい事ばかりじゃない。むしろ思わぬハプニングや事件に事欠かないのが車中泊の旅なんだ。最近も、朝食にと入り込んだ海岸の砂で身動き取れなくなって汗だくと砂まみれで3時間も苦労したこともあった。暑過ぎても寒過ぎても雨が降っても台風が来てもこの旅は切ない。ガソリンが少なくなってくるのに適当なスタンドが見つからないだけで泣きたくなる。日に一度はスーパーの世話になっている訳だから全国のスーパー事情には詳しくなったなんていうのも笑ってしまう。まあ、こんなのが日常といえる。
 これが女房との旅となるとがらりと変わる。高速道路で移動時間を少なくし、日頃行かない観光地を練り歩き、有料のオートキャンプ場でキャンプグッズを出して川のせせらぎを聞きながら盛り上がることになる。どうやら二人だとこんな方が楽しいと分かってきた。

 キャンピングカーでの車中泊の旅は百人いれば百様の方法があるようだ。それぞれの興味関心に合わせて組み立てられていく。ひと夏北海道で暮らしている人もいる。それもいいだろう。私には、本州で季節毎の自然の美しさや田舎の人々の暮らしの風景を眺めて走ることが好きなようだと理解するに至っている。


腰痛、激痛!要注意!?


2016.10.23

 
 
丁度一週間になる。先週の日曜日、朝から左足が痛く引きずって歩いていた。午後には激しい痛みが襲ってきて、歩くことも座ることも出来なくなってしまった。どうやら神経がやられたかと、覚悟をした。長い旅の間にも左足はピリピリと妙な違和感を発していた。
 二晩はどうやって眠ったかも覚えていない。ベットで横になって足の痛くない寝方を探すのだけれど、どうにか我慢できるポーズを見つけても程なく激痛が襲って来る。次の日、近くの整形外科に飛び込んだ。予想していたとおり、MRIとレントゲンをさらりと眺めながら、医者は「椎間板ヘルニアですね。」と当然のように言った。そして、例の温シップと牽引(けんいん)の処方箋を示した。8000円也。

 ストレッチという方法があることは何となく知っていた。なんせ終日寝ているだけの一日だ。パソコンを枕元に置いてどうにかしてこの激痛を少しでも緩和することができないかと調べた。ストレッチについてたくさんの記事や図解やビデオがあった。「痛みを和らげるストレッチ」なんて図解を見よう見真似で始めた。遣り過ぎは危険!というどこかの交通標識のような言葉が多いので、極力無理しないと心に決めて試行錯誤のストレッチが始まった。情報が多過ぎて何が適切なのかを選択するのが難しかった。失敗は激痛で償うのだから失敗はつらかった。どうにか3種類のメニューを決めて朝晩繰り返した。痛くてバリバリに張って眠れない夜もそろりそろりとストレッチをしていると1時間2時間と眠っていた。

 ストレッチの情報を調べているうちに妙なことが気に掛かりだした。腰椎間板ヘルニアなどの痛みは、その90パーセントは腰椎が原因ではなく、骨盤の仙腸関節の機能障害だと主張して治療している整形外科医たちがいるという話だ。AKA-博田法というらしい。2年くらい前にはテレビの情報番組にも取り上げられていた。今頃になってYouTubeで何度も見て、自分の椎間板ヘルニアも仙腸関節の機能障害に違いないと確信した。

 近くにAKA-博田法を施してくれる医者はいない。さてどうしたものかと考えて、改めてストレッチ情報を眺めるとたくさんの整体師さんが仙腸関節のストレッチの方法を紹介している。これまた、必死に眺めて自分に合いそうなメニューを見つけて実践を始めた。つい先ほどまで痛くて座れなかったのに、ストレッチの後、一週間振りに椅子に座ってこの文を書いたが左足は痛くならない。どうやら峠は越したようだ。

 腰痛の激痛で苦しんでいる最中、危ない整形外科医と整体師さんには要注意だと感じた。

 



富士山が見たい


2014.10.28

 
 
10月4日
 土曜日の夜。瀬戸大橋・与島のパーキングにいる。ライトアップされた瀬戸大橋がその雄姿を夕闇に映している。「ああ、また旅に出たなあ。」とちょっとセンチになる。台風が近づいている為か、冷たい風が始終吹いていて、ちょっと疲れて出た旅の心に響く。
「富士山をゆっくり見たい。」こんな子ども染みた命題はこうして文字にするのも恥ずかしいが、夏に日本海を東尋坊まで走って裏日本の風情を感じた。ならば今度は表日本のど真ん中を眺めたいってことかな。これまでに何度か見ている富士山はどれも素晴らしかった。キャンカーに乗って初めて訪れた嵐の山中湖はキャンプサイトに人っ子一人おらず、富士山どころではなかったけれど、見れなかった富士の英姿、この経験は大きい。初回に躓(つまづ)いたものだからずっと尾を引いているのかも。逃がした魚は大きいって言うからね。
 それから、フォッサマグナを見て、暗くなる前にと必死に走って飛び込んだ本栖湖で、突然現れた夕日に照らされた富士山が2度目かな。あんな美しいものは見たことがない。河口湖で湖面に映る逆さ富士と松の枝のコントラストも初めてなのに当然のように受け入れた。思えば銭湯で見る富士山の原型だって後から知って納得した。今回はどんな富士山に出逢えるのだろうか。楽しみだ。
 高速は使わず、下道を時間も見ず余所見をしながらだらだらと走ってきたら瀬戸大橋まで6時間も掛かってしまった。四国は広い、香川は遠い。これじゃ富士山に着く頃には疲れて何にも出来ないんじゃないかって自分でも心配になる。まあ、それならそれで良いか、これがオレの旅なんだから。

 10月5日
 目が覚めたら3時前だった。まあ眠れそうにもないし、暗いうちに距離を稼ぐかと決めて走り出した。予想はしていたけれど本当に走りやすい。いつも混雑していらいらする2号線を高速道路のように爽やかに駆け抜けた。上手な走りをする中型トラックの後ろに付いてしばらく勉強させて頂いた。なんて、ただ何にも考えないで安全だからついて行っただけだけど。神戸の手前で6時を回り周囲が騒がしくなって来たので、あっさりコンビニに車を止めてスコンと寝た。
 
 しかし、軽油の値段ってどうしてこんなにも違うのだろう。156円なんて平気で書いているところもあるのに、昨日は129円を見た。60リットル満タンだと1500円も違ってくるんだから大きいよ。昨日の風呂代と晩飯代くらいにはなっちまう。だから、どのタイミングでどの値段で折り合いをつけるかが難しい。残りが少なくなると反比例して不安が増大するし。今日は大阪から鈴鹿を抜けると決めていた。以前に一度走った旧高速道路をもう一度走りたいと思っていた。昼間の大阪のど真ん中を走るのだから、どれだけ時間が掛かるか分からないと覚悟して飛び込んだ。ふと、折角だからいつも仕事で教えている蔵屋敷(江戸時代に各藩で集められた年貢米は大阪のここに集めらえるんやぞ、とか)でも覘いてみるかってな気になった。神戸大阪と結構スムーズに流れた。

 先日、フリーマーケットで見つけた2枚で100円で買ったラフマニノフのピアノコンチェルト3番が役に立った。2番は有名で好きだけれど、3番は全然知らない。1回目さらりと流れていった時には、難解なだけで「こりゃ駄目だ。」と諦めかけた。でも暇だしと思って2回目が流れて来た時、あんまり美しくないけれど変なちょっと前衛的に感じる主題が分かった。そうしたら、後はあの壮大なラフマニノフの世界が次々と展開している事が分かって面白くなった。こりゃ、旅のお供がひとつ増えた気分で嬉しいぞってもんだ。そんな間にも大阪・蔵屋敷界隈に車は着いてしまったのだが、今の堺市の繁華街のようであんな昔の大きな屋敷があるようには見えない。3回くらいぐるぐる回ってみたが諦めた。当時は船で直接、年貢米を運び込んだなんて様子が分かっただけで納得する事にした。

 さて、がらりと雰囲気を変えて一路鈴鹿へ25号線をかれこれ北上するのだが、なかなかお目当ての旧高速道路に乗れない。「もっと京都よりだったかなあ。」と諦めかけてナビの言うとおりに信号を曲がったら、突然の期待していた世界に突入した。おおこれだってぼんやり走っていたら大型トラックにまで抜かれて、我に返った。「おし、走るぞ。」ってスイッチを入れて鈴鹿までひたすら走った。「ここは国道です。」なんて書いてあるところを100kmで、ただで、バカバカ走れるのだから楽しい。
 まだ4時にもならないけれど、名古屋の手前で温泉を見つけておしまいにする予定だったのでナビに聞いたら、鈴鹿さつき温泉を教えてくれた。それで、はいはいって飛び込んだら、いい温泉だった。地元の人がたくさん入っていて、あちこちで世話話が弾んでいる。みんな知り合いオレだけ旅人、みたいな奇妙な世界を楽しんだ。こんなのも悪くない。1時半に目が開いて、予定通り夜中に名古屋を通り過ぎた。またカーバトルをやってしまった。4時に眠くなって岡崎の道の駅「藤川の宿」で眠った。雨と風の音と車の不気味な揺れで何度も起こされた。台風だ。

 10月6日
 どうにか7時までは寝たが、揺れが気持ち悪くて起きる事にした。雨はどんなに降っていても、車の中にいる分には関係ない。しかし、この風は気持ち悪い。「こりゃ、走るには流石に恐いかな。」と諦めて、目の前のコンビニで仕入れたサンドイッチとインスタントラーメンと自分で入れたコーヒーで朝飯にした。大雨を眺めながらの朝食もなかなかいいもんだって事にしておこう。9時くらいで明るくなって来た。もう大丈夫なようだ。激しかったけれど、短時間で済んで良かった。
 さあ、出よう。一路、焼津に向けて出発した。100m走ったところで「ああ、明治用水はどこにあるんだろう。」要らぬことを思い出した。仕事で教える明治用水。愛知用水、豊川用水とこの辺には3つの水路が作られている、なんて格好つけて教えているけれど、どんなものなのか全然知らない。一度見てみたいと思っていた。ナビは30分戻らないとならんという。 迷ったけれど急ぐ旅でもないので行く事にした。朝の濃尾平野、こんな阿呆な用事で走っていると、これからお仕事で青筋立てて走っている隣の若者に申し訳なくなってくる。トヨタ本社が近いらしい。関連のいろんな施設が目に入ってくる。 一企業がここまで周囲に影響を与えるほどに大きくなるっていい事?なんて、またお節介な事を考えているうちに、すすっとよく整備された小さめな湖?に着いた。初めは何のことか分からなかった。私には、南アルプスの何処かから水道橋みたいな水路で水を引いて くるイメージだったから。でも、一目見て、そして目の前の解説をじっくり読んで分かった。その昔、何やらさんって人が、低湿地帯だったこの辺を周囲の川から水を引いて灌漑用の池を作ったようだ。この水利施設を利用して水稲やら果樹やらを作って、 「日本のデンマーク」なんて言われたってさ。そうかため池か。それならオレの遊んでいる果樹園のすぐ横にもあるぞって、急に親近感を覚えてしまった。朝からすっかり寄り道してしまったけれど、味のあるモノを見せてもらって、気持ちよく明治用水を後にした。
 いざいざ焼津。この旅の最初の目的地は焼津港と決めていた。来春、めでたく結婚することになった娘の彼氏が子どもの頃にこの焼津港で毎日のように遊んだと聞いた時から、結婚前までにはこそっと一人で眺めてみたいと企んでいたもので、 あまりいい趣味とは言えないかもしれない。もちろん娘には内緒。さくっと3時間で到着するはずだったのに、岡崎を出た辺りから1号線の様子がおかしい。身動きできないほどの渋滞が始まった。高速が大風で利用不可になっているらしい。加えて、 1号線もどこかでアウトらしい。みんなじっとしている。オレは駄目だ。こういう時はすぐの耐えられなくなる。小さな側道から抜け出して山道に入り、方角と勘だけを頼りにナビにない道を見つけて太平洋に向かった。ほんの数キロに1持間も掛かってしまったが、 それでも被害を最小限にして焼津港に着いた、と勝手に思っている。遠洋漁業の基地として有名な港だ。何と言っても大きい。がっちりしている。周辺に小さな港がたくさんあって白い漁船が無数に停泊している。目の前の岸壁で母子連れが鯵(あじ)を釣って いるらしい。広々とした長閑な風景だ。焼津駅から歩いて来れそうな距離だった。娘の彼氏が過ごした時間を共有したような気分になってすっかり満足した。さて、ここからがいよいよ本番だ。予定地は38ヶ所ある。とんでもない数字だ。どうなるかは分からない。

1.日本平
 日が沈むまでには着いて写真を撮りたい。ちょっと気負ってアクセルを踏んだ。1号線からほんの数キロで到着。南アルプスに、まさに日が落ちそうな時間だった。清水の港を眼下に富士山がピンク色に染まっている。 幸先の良い絶好のシャッターチャンスに小躍りしながら暗くなるまでシャッターを切り続けた。

 10月7日
2.美保の松原
 日本平で朝を向かえ、朝日に煙る富士山を写そうと勇んでエンジンを掛けたら、展望台への道は閉鎖。やむなく次の予定地、世界遺産・美保の松原に向かう。といってもほんの10分もしないで到着だ。台風の名残りか波の荒い駿河湾を眺めながら、 手入れの行き届いたどこまでも広い砂浜をゆっくり歩く。ちょっと風が強くて寒いくらいだが文句は言うまい。それより、肝心の富士山が朝から雲に隠れてすそ野くらいしか出て来てくれない。今日も晴れ!と期待していたが少々曇るらしい。 こりゃ、駄目かな
3.さった峠
 なかなかマニアックな山道を上って行った。土砂が道を塞いでいて、所々に昨日の台風の爪あとが残る。前の車が急にバックランプを入れた。びっくりした。彼女がユータンした後には、目の前に「通行止め」のでかい看板があった。 そういうことかと納得。
4.田子の浦
 最近、何かのテレビコマーシャルでオレの嫌いな氷川きよしが田子の浦でたくさんの漁船と映っていた。こりゃいってみないばならんと思って来てみたが、富士山の景色が悪いとどって事のない漁港さ。ああ時間の無駄だ。 それより、さった峠を出たところで1号線が完全閉鎖。清水まで戻って東名高速に乗るかこのまま待つしかないと、旗振りの兄さんに言われた。必死に走っていて路上で突然しばらく動けないと言われたってねえ。でも、エンジン切って、 我に返ったらそこは第2の我が家。パソコン開いて旅の業務日誌をつけたり、朝寝をしたり、こんな完全閉鎖ならいつでも良いよってなもんだ。1時間以上も寝てしまった。
5.白糸の滝・田貫湖
 白糸の滝は2回目だった。前回の記憶が曖昧だったのはあまりいい印象でなかったからだろう。あの土産品の店は何とかならないのだろうか。前回は滝の下まで行っていなかったので、マア仕方なく今回はしんどい思いして階段を下りてみた。 悪くはないけどフツウかな?確かに、あんなに何本も細い滝が見られる風景は珍しいけれどサ。500円の一般駐車場の目の前で200円の看板持っておっさんが頑張っていた。安さに釣られて留めてみたけど、500円以上の果物を買ってくれたら無料だという。 こんな商売の仕方もあるんだと600円のしなびた葡萄を買って勉強させて頂いた。後味が悪い。
 初めての田貫湖は良かった。全く自然に手が加えられていないかのように感じさせる気配りも嬉しかった。湖一周のサイクリングロードなんてイカスじゃない。 持って行ったチャリがしっかり活躍できて有難かった。3.3キロ走ったら、その後、スコンと2時間も寝てしまった。富士山見えなくても楽しかった。
6.朝霧高原
 富士山の裾野に広がる丘陵地帯って感じがいい。常に緩やかな坂道を走っている感じはおおらかな気持ちになれる。晩飯の仕入れでいいスーパーがなかったり、温泉を探すのに手こずったり、朝霧高原温泉はすでに廃館していたり、 なかなか思い通りにはならなかった。
7.本栖湖・精進湖・西湖
 暗くなり始めた。夕食もゲットし、後は風呂があれば完璧だ。西湖に日帰り温泉・いずみの湯ってのがあるから、これを目標に走る事にした。本栖湖キャンプ場は車泊旅倶楽部のみんなが先月オフ会を開催した場所だ。どんな所か遅まきながら参上したかった。 広々としたキャンプ地は余計なものは何もなくシンプルそのもの。手付かずの自然が残る湖畔に近く、おそらくみんなはこの自然の恵みを満喫したのだろうなあと羨ましく感じた。
 時間に追われながらも湖畔を一周した。前回、夕日を写した場所も通った。 重い雲に覆われた富士は、全く姿を見せてはくれなかったけれど、前回の記憶が蘇って美しい富士山を見たような気になった。精進湖は湖畔の写真を写すだけ、西湖の畔を暗闇と競争して温泉に着いた。ここがもしやっていなければ今日も風呂なしと覚悟していたので、 赤々と灯る温泉の光が眩しかった。でも、番台でお金を払おうとしたら900円と書いてある。「え?こんな田舎のたいしたことのない風呂が?」と思ったけれど、ここまで来て諦める訳にも行かず、不満の残る出費となった。

 10月8日
8.河口湖・忍野八海
 ヤフーで調べたら静岡県は100%の雲ひとつない晴れ!の筈が、いざ動き出してみると、東から日がキンキラキンと昇ってくる来るものの、富士山は大量の雲に覆われて姿を見せない。きっと、こいつはオレが遠くから来ると知って 、恥ずかしがっているに違いない。まあ姿を現さないヤツは相手のしようがないと諦めて、河口湖へ。前の3つに比べる相当大きいが、湖も4つ目ともなるとそろそろ飽きてくる。前に世話になった道の駅でちょっと休んで、そそくさと忍野八海に走った。
 実は、ここは密かな今回の最大の楽しみだった。名前がいい、雰囲気がいい。きっと田舎の美しい風情を見せてくれるに違いない。結果は!?。素晴らしい自然?完全に管理された観光地?。どちらとも言えるからどう表現していいのやら分からない。 今どき、野放しの自然が美しく感じられる場所なんてそう簡単には見つからないのかもしれない。ならばこういう自然もあっていいのかなあ。とてもよくコントロールされているとは思う。局所をカメラで切り取るには最適かもしれない。 でも、これは本物じゃないよね。いやこれも本物なのかな。これに富士山が入るとまた違ってくるのかも。またまたマイ・チャリが大活躍だった。感謝。
9.山中湖・東富士演習場、そして下田
 そろそろ、いらいらの限界だった。相手は天気。始めから駄目で元々という覚悟はあったつもり。でも、この調子だと一日中どこに行っても、この風景に富士山があったらと不満を募らせる事になりそうだ。
 下田に行ってみたい。こんな時の為に準備しておいた訳じゃない。でも、伊豆半島にも行けないかなという期待はあった。下田。激動の明治維新の舞台のひとつとしてあまりにも有名な場所だ。それなのに、どうしてか下田そのものを語られる事は少ない。 明治政府以来、現在に至るまで負の遺産として隠したがっているという気もしている。一度はこの目で見ておきたい場所なんだ。
 ナビでは100`。3時間では着かないだろう。今日の富士山を全部キャンセル出来るか。 5分くらい悩んで、スコンと結論を出した。下田へ行こう。夜になってこうして思い出せば、これがキャンカーの旅の醍醐味って事になるのかな。でも、その瞬間は全部、真剣勝負だからしんどいよ。
 あの「天城越え」のうたにある、天城峠を越えた。こんな峠があると知っていたら躊躇(ためら)ったかもしれない。えんえんと続く登り坂。そしてトンネルを越えたらとんでもない下り。急な下りを緩和させるための螺旋(らせん)の (橋の?)道路は時々見かけるけれど、3回転なんていう体操のウルトラCのような螺旋は初めて。止まって写真にしたかったけれどそれどころじゃなかった。惜しかった。
 下田開国博物館。小さな建物だった。特に国や県からの補助があるようには見えない。 小学生の数名が出た後のようだった。2時間あまり滞在したが、私以外に訪問客はいなかった。1685年のペリー来航が7隻の軍艦で2560人の水兵を率いて7ヶ月掛けて日本まで来たと知って驚いた。
 下田湾は小さな漁村だった。 この港を眺めながら当時を慮(おもんばか)る時間は味わいがあった。数年後、ハリスが来て事実上の開国作業を進めたという辺りも、下田で理解することが出来た。なるほど納得だ。彼は江戸まで、当時の参勤交代のように数10名を従えて7日間を掛けて何回も 出ているらしい。将軍にもあって直接、開国の手続きを友好的に進めたあたりの件(くだり)は、強大な軍事力を背景に、不平等条約を迫ったと教える感覚とはいささか隔たりが感じられる。下田は2年後、ハリスが江戸に居を移した時点で、 事実上の役割を終えたようだ。貿易の中心が横浜に移ったと聞いて、これまた、なるほどと感じられた。
 やはり、現場に来て土地の人と話すことによって得ることは多い。今回の下田探訪でもつくづくそう思う。ガソリンが乏しくなる中、不安をこらえて熱海まで出た。高いガソリンは入れたくない。 民家よりホテル・旅館の数の方が多いんじゃないのってくらい、周辺全部ホテルと旅館。オレは今日もコンビニの駐車場の隅っこ。たまには揺れない布団もいいなあ。

 10月9日
 今日の目的ははっきりしていた。横浜のレストラン・ドルフィンに行って昼食を食べること。ユーミンの初期の頃のうたに「海を見ていた午後」というのがある。山本潤子さんがずっと歌い続けてくれているので、時々耳にしていた。 数年前からこの曲をレパートリーに入れたいとぼんやり思っていた。でもいい譜面がないし、自分で一から書くのも面倒だ。一ヶ月ほど前、キャンカーの友・新居浜のTomo3805さんと楽しく歌っていたら、何と彼の持っている譜面にこの曲の手頃なアレンジが 載っていた。後日、トモさんには無理を言って、ファックスをしてもらい、以来、それなりに手を加えてぼちぼち歌えるようになって来たところなんだ。

海を見ていた午後
1.あなたを思い出す この店に来るたび 坂を上ってきょうも ひとり来てしまった 山手のドルフィンは 静かなレストラン 晴れた午後には遠く 三浦岬も見える ソーダ水の中を 貨物船がとおる 小さなアワも恋のように消えていった
2.あのとき目の前で思い切り泣けたら 今頃二人ここで 海を見ていたはず 窓にほほをよせて カモメを追いかける そんなあなたが 今も見える テーブルごしに 紙ナプキンには インクがにじむから 忘れないでって やっと書いた遠いあの日

 今回、「富士山を見たい」という旅の最後は、このうたの舞台、横浜の高台にあるレストラン・ドルフィン。伝説のソーダ水ではなく、ランチとコーヒーで過ごした。この曲が世に出てから30年は過ぎているというのに、横浜港を眼下に 、さっき通って来た三浦岬は見えなかったけれど貨物船はしっかり見えた。ピアノが置いてあり、実際に使われているようだ。モダン・ジャズのBGMが心地いい。持って行ったギターを横に置いて、「海を見ていた午後」10回くらい、心の中でうたってお仕舞いにした。 オレがうたうとセンチな歌だ。ああショーもない。
 さあ、帰ろう。昨日も風呂に入っていないから、適当な温泉でいっぱいやって、っと思って茅ヶ崎・大磯と夕方の大混雑の中を頑張ったが、どこもうまくかみ合わない。こりゃ駄目だと諦めて、その辺の和食レストランでビール飲んで肉を食って、 碁を打って寝た。まあこれも有りさ。

 10月10日
 夜中に満月が出ていた。オリオンも涼しげに輝いていた。でも富士山は諦めていた。どうもあいつはオレが嫌いらしい。3時に起きて走り出した。昨日の混雑がうその様だ。殆ど信号にも止まらず、 1号線は箱根に入った。いつも正月になると女房が見ている駅伝で出てくる坂だ。心臓破りとか。こうして走ってみると車ででも相当なものだ。真夜中の誰も通らない古い道路の沿道からあの正月の歓声はなかなか想像し難いが、確かな実感はあった。
 そして、この道はあの芦ノ湖を通るのだ。楽しみにしていた場所はたくさんあったのに。まだ夜明けには時間がある。どうせ駄目だろうけれど、湖の夜景でも土産にしようと決めて、湖畔でぶらぶらカメラと遊んだ。 「あっちが富士山かなあ。」恨めしくカメラを向けて何枚も写した。ほんのり明るくなっても富士山方面は霞んでいる。
 さあ帰るか、と決めてエンジンを掛け、数100m走った。小田原へ抜ける最後の信号で右手を見たら、居た。
 手前の山陰から薄く、でもくっきりと富士山がいた。目を疑るとはこういう時に使う言葉だね。全然疑わなかったけれど。即座にハンドルを左に切った。 この旅に出る前、ネットで「美しい富士山を教えて!」って助けを求めたら、横須賀のKENさんという方がたくさんの景勝地を紹介して下さった。その中に、この芦ノ湖と左の山の大観山も入っていた。一気に山を上った。
 大観山から見る深く闇に沈む芦ノ湖と朝日が当たり始めた富士山。十国峠から見る大自然の中の富士山。芦ノ湖スカイラインの何箇所もある展望台から見る駿河湾に傾斜してゆく富士山。600円の有料道路代だって出しても惜しくない。 と思ったら出口でまた350円取られた。まあそんなことはいいとして、少しずつ曇って来るでっかい富士山を追いかけて、ついに裾野市・そして本物の裾野を駆け上がって、御殿場側の登山口・水ヶ塚公園PAまでたどり着いた。何十枚もの写真を撮りながら一気に走って来た。 面白かった。大満足だ。幸せだ。
 ふと思ったことがある。この富士山の裾野を走ると同じような角度の緩やかな斜面が続く。頂上に向かう時は、必ず上り坂。頂上を背にすると下り坂。円周上を走る時は、外周側が下がるほぼ水平な道になる。距離は直径×3.14(へへ、算数の知識が大活躍) 。それに川がないこと、だから橋がないこと、そしてトンネルもない。木々は一様の高さに揃い、一様に点在して分布している。ちょっと昔、大爆発した大きな山だからと言ってしまえば全ては解決するけれど、実際に走っているとユニークな世界にいると感じる。世界遺産、おめでとう。 これからも宜しく、と雲で隠れそうな山に挨拶をしておいた。
 本物の帰路に入った。海まで出たら、頭を雲の上に出した富士山がバックミラーからさよならって1時間も2時間も手を振っていた。可愛いやつだ。浜松まで頑張った。往路に129円で入れてくれたシェルのスタンドまでたどり着きたかった。 疲れてくると、比例して危険が増大する。何度か危ない目にあったが、どうにか到着して、浜松の温泉を教えてもらった。何でも土地の人に聞くのが一番。ナビにも載っていない最新の喜多の湯に行って、ピカピカの湯を頂いた。でも、サウナのテレビは仕方ないにしても 、露天風呂でまで大画像のテレビが吼えているのには少々閉口した。1gの生ビールと旨いもの食って、碁を打ってすこんと寝た。

 10月11日
 3時に目が覚めた。よし、暗いうちに名古屋を越えるぞと決めて動き出した。夜の道は今日も快調だ。ぼんやり走っているうちに、また余計なことを考え始めた。オレは安い軽油を見つけて喜んでいるけれど、これだけの物すごい数の自動車が全世界で動いて、 その燃料は全部石油だ。よくそれだけの石油があるものだ。いつまでもこの状態が続く訳がないよな。石炭は日本ではなくなった。
 火力発電もいれて、つまり化石燃料には限界がある。だからといって原子力なんて考えられもしない。地球を壊すだけだ。ハイブリットが繋ぎの役目と分かっていて、これ程に普及するとは思ってもみなかったが、それだけみんなの関心が高いってことか。 いや、燃費は安い方が良いもんね。遠からず、この国道1号線を走る夥(おびただし)しい数の車が、トラックから12mの冷凍貨物まで全部電気自動車で、「昔はガソリンなんかで走ってたんだってさ。」とかいう話になりそうだ。太陽光で作った電気で走るシステム以外に人類に残された道はない! 寝ぼけての夢物語かなあ。

 うーん、信号の連結が悪い。岡崎から名古屋までの1号線。信号が制御されていない。事故防止でわざと流れなくしているのなら、きちんとそれと分かる。この道は県の道路担当者がサボっているだけの話だ。オレみたいな風来坊にはたいして構わないけれど、 この道で食っているドライバーたちにとっては迷惑至極な話だ。時間は掛かるは、ひどく疲れるは。燃費は食っていらいらがつのる。日本の安全で豊かな道路のレベルはこの程度か!
 名古屋に入ってから四日市までは、まるで違う道路に出たようにスムーズに流れた。やれば出来るじゃん。 6時、四日市到着。おやすみ。
 9時に動き出した。今日は行ける所まで行く。大阪のど真ん中は避けたい。枚方辺りから宝塚に抜けるなんてのはどうかな。ナビは幹線しか言わないけれどどうにかなる筈だ。こんな調子でナビの言うことを聞いたり聞かなかったりして楽しい関西の旅が始まった。 山あり谷ありで面白かったけれど、田舎もんが昼間の都会に足を踏み入れちゃいかんね。たくさんの人に迷惑を掛けちまった。ありがたくも事故だけは起きなかった。ナンマイダ、何枚だ。(あ、変換ミス)。
 宝塚から中国道沿いを西に走ったんだけど、反対車線が、とんでもない渋滞。 5`10`なんてもんじゃない。「ああ、高速が事故だな。」もう分かっちまう。今夜の帰宅はみんな深夜になるだろうな。事故の人、ショックだろうな。
 こちとら最後の夜は、豪華料理つきの風呂にしようか、スーパーの惣菜で済まそうかとうろうろ迷っているうちに周辺は中国山地へ。慌ててコンビニで食材を揃えて、道の駅「みき」へ。着いてみたら立派なレストランとスーパー顔負けの食材が揃うお店が8時半まで遣っているとか。 とかく世の中ままならないね。でも、この道の駅はちょっとメモかな。
 だらだら書きなぐって来たこの旅日記を今回はこれで完結とします。読んで下さった方、ありがとうございました。後日、富士山の写真がうまく写っていたら、載せようと思います。どうぞよろしくお願いします。失礼しました。




日本海を東尋坊へ、そして御嶽山・白川郷


2014.8.31


2014.8.7
 待望の旅に出る。全ての煩悩を振り払って旅の境地に浸りたい。そんな思いで準備をして今回は山陰の旅に臨んだ。世間の柵(しがらみ)は、日々の暮らしの中ではなかなか消え去ってはくれない。旅に出てしまえば、きっと浮世の世界とはおさらばする筈だ。こんな思いでハンドルを握ろうとした。
 なのに早速、「しまなみ海道のウイークディは4550円だ」と、出発に際して頑固にナビがノタマウ。「そんなにするか。土日なら2000円少しくらいだったのに。くそっ。ならば瀬戸大橋でもいいか」とちょっと日和ってみたが、やはり初めから負けるのは悔しい。しまなみ海道の島の中は下道を走ったらどうなるか。こんな命題を与えて、やっとこの件は落着した。

 因島まで来た。やはりケチって走ると少しは安くつくようだ。朝からちょっと走りっぱなしで疲れたので、どこか適当なところで休もうかと思って走っていると、囲碁の大家、「本因坊秀策記念館」の文字が目に入った。前に一度チャンスを逃して、まだ秀策さんにはお会いしていないし、今日は全く時間に制限はない。連れもいない。「今日行かないで、何時行けるというのだ。」瞬時に決まった。
 因島の外れの田舎の田舎に秀策さんの生家があった。立派な記念館で碁盤も数面置いてある。思い出にと彼の有名な一局を並べていると、館の案内の人が、よかったら一局打ちませんかと地元の人を紹介してくれた。4段だと言われるので私が白の「先」で打ち始めた。こんな何の予定もしていない田舎で久々に碁石を持って対局することが出来るなんて、まるで夢を見ているようだ、と思いながら石を置いた。筋のいい上手な打ち手だったが、どうにか15目半で勝たせてもらった。
 江戸末期の囲碁の偉人に触れ、すがすがしい気持ちで記念館を後にして尾道に上がった。2号線を暫く走った。暫くは碁盤が頭から離れなかったが、ふと「ああ、旅に出たんだなあ」という境地に入った。平日の2号線はもしかしたら初めてかもしれない。休日とは全く違う混雑振りだ。福山市を抜けるだけで1時間が過ぎていた。どうやら今日の目的地「鳥取」は相当遠そうだ。岡山だって先は長い。

 途中、睡魔に襲われて、「やばい!」と思って、くそ暑い中、コンビニで車を止めて用意していた後ろの布団で寝た。数分寝た。やはりくそ暑くて目が覚めたが、思った以上にすっきりとしたようだ。さて今日はどんな寝床が待っているか。4時も回ってくるとそろそろ気に掛かってくる。ナビで近場を探ってみると、粟井温泉と出た。寄ってみたが、日帰りは3時半までとか。しようがなくて、まだ外も明るいのでもう少し走った。71号線は急に山道に入ったが、ここは中国山地。四国山地ほどには険しくない筈だと覚悟を決めて走ったら、予想通りにすぐに小さな美しい集落が見えて来た。この辺でならいい場所がないか、ともう一度ナビに尋ねた。駄目ならそろそろ道の駅かコンビニも覚悟しなくてはならない。ナビは、「建部町八幡温泉郷4`」という。へへ、良さそうな雰囲気だ。そそくさと走った。
 410円。相当古びてはいるけれど名前の分からない大きな川のほとりにひっそりと佇む八幡温泉がすっかり気に入った。よし、今日は此処だ。こんな時こそがキャンカーの旅の醍醐味だとひとりで悦に入っている。
 旨いビールを飲んで、こんな駄文を書いている。

2014.8.8
 4時に起きて周辺を整理し始めた。明るくなるまでに少し走りたい。今日も知らない田舎道は美しい風景を惜しげもなく見せてくれるだろう、なんて格好つけて準備を始めたら、朝飯の箸がない。スプーンでカップラーメンは食いたくない。そういえばpcの電気も足りなくなり始めている。仕方がないから少し走って充電だ。
 ところがいつもならメインバッテリーには反応して充電のサインが出るのに今日は反応がない。AUのWIFIも同様だ。これは困る。これからの旅にPCが使えなくなるではないか。どこかの道の駅で電気が取れないか。小さな窃盗行為だとは分かっているけれどこの際、勘弁して貰うしかない。そう思って走っていたら「くめなん」と書かれた道の駅が都合よく出て来た。道に沿ったベンチの横におあつらえ向きのコンセントさえ置いてある。こりゃ不幸中の幸いだわさと「ゴメンなさい。」とつぶやきながら有難くお世話になることにした。全くキャンカーの旅の一寸先は分からない。

 充電の暇つぶしにとAyabot相手に碁を打ったら、ころころと2つ負けた。寝起きでボケていたかと諦めた。さて、旅の続きだ、先は長いぞ。この旅の最初の目的地は智頭と決めていた。特に何があって決めた訳じゃないんだ。鳥取の手前で智頭って文字が素敵じゃないか。綺麗な田舎道をだらだらと2時間くらい走ったら智頭駅前の観光案内所に着いた。
 何にも期待していなかったのに、駅前の通りがかなり古いのによく整っている。これは明治より古いんじゃないのかな。観光地化されていないからぎらぎらしていなくて、生活の香りもちゃんとある。それにしても町並みがどこか美しいのだ。あまりよく分からずに、観光案内を見ると、メインの名所は、「石谷家住宅」だと書いてある。何だろうね。豪商かな。まあ折角来たんだからメインだけでも行っておくか、ってことにした。オレとしては珍しいことかもしれない。
 かなり離れたところに駐車場があり、狭い路地をぽっこらぽっこら歩かされた。よく手入れされているけれど、車もろくに通れないような通りを5分ほど歩いてその立派な住宅はあった。やはり江戸時代の気配だ。入り口の案内板を見て納得。智頭は江戸時代の宿場町だったようだ。それも大名が陣を張って宿泊する場所として栄えていたところらしい。ど田舎にしゃれた町並みが出現して少々戸惑っていたのだけれど、種明しが出来て、智頭の町に深い感銘を受けた。何にも下調べをしない手抜きも、珠にはいいこともあるってことか。

 隣町の用瀬(もちがせ)も名前が格好良いから寄ってみた。何にもなかった。ちょっと奥の方に若桜(わかさ)って町がある。一度、此処に来てみたかったのだ。もちろん私の苗字と同じだから。町が近づいて来ると標識や看板に「わかさ」「わかさ」と書かれる。何だかその度に呼ばれているような錯覚に陥る。この歳まで、自分以外の「わかさ」にはあまり接したことがないからかも知れない。この町も旧の宿場町だったらしい。美しいいい町だったので嬉しかった。道の駅のお姉さんも優しかったので、もっと印象がよくなった。この頃から、雨が降り始めた。覚悟はしていたけど、やはり残念。
 雨の中、鳥取から日本海沿いを山陰海岸に向かって走った。朝が早かったので途中でギブアップしてどっかの空き地でスコンって寝た。1時間以上も爆睡したようだ。キャンカーの旅らしい出来事だ。ナビには「竹野浜」と打って走った。これもその辺が雰囲気かなって程度のことだった。去年、鳥取から城崎まで走っている。でもその時はよくも分からず、山陰海岸は険しいのでナビは内陸の道を選んでいたようで、女房と喧嘩している内に城崎に着いてしまった苦い記憶がある。今回は心ゆくまで日本海の荒波とお話が出来るかと期待していた。確かに、ナビが避けるだけのことはある。断崖絶壁、離合不可能、危険と隣り合わせの道が延々と続く。それに雨。見えない、滑る、どんよりしてつまらない。
 でもでも、雨だから救われたこともたくさんあった。なにより暑くない。今日はカークーラーを雨になってからは一回も使わないで済んだ。それよりもなんと、海水浴場にはお客さんが全然いないからどこもスイスイ行けてしまう。竹野浜は、それはそれは素晴らしい海水浴場。大自然の中に数百台は入る駐車場も完備されて、最高の環境。もし今日が晴れていたら、周辺は大渋滞が間違いなし。大雨だったからこんな何にも知らない阿呆がのこのこ出掛けていってうろうろすることが出来た。今年のこの辺の海水浴の売り上げは相当低いだろうなあなんていらぬ心配までしてしまった。

 美しい断崖絶壁から小さな入り江の砂浜までゆっくり見せてもらって、そのまま車を城崎まで寄せた。そろそろ今夜の風呂と晩飯の時間だ。どんな事になるやら。城崎温泉でどうなるか。不安はあった。温泉街に、オレみたいな気儘な客は不似合いだって事はそろそろ気づいている。一流の旅館にはこんな風来坊は天敵かもしれない。2.3回街中をうろうろしが、車を止める場所さえ見つからず、諦めかけた頃、鴻の湯の看板の横にこじんまりとしたコイン駐車場が目に止まった。これは行けるかもと思って、恐る恐る確認したら、駐車は1時間まで無料。入浴は600円。
 さすが本場の温泉の湯。非のつけ所はなかった。いい湯だった。それでも出てみると、晩飯には少々向かない。旨そうな温泉宿の晩飯を想像しながら、こちとらはさっさと覚悟を決めて、コンビニを探した。それが事件。城崎から久美浜まで25分。暗くなった山道をふたつの峠を越える羽目になってしまった。まあ、こんな事もあるさ。いやあ、今日もよくよく走り、いい一日だった。山陰の日常に触れて、私の好みに合うなあ、としみじみしている。気候のいい、晴天の秋にでも寄ってみたいものだ。そんなことを考えているうちの、コンビニ駐車場の夜は更けた。

2014.8.9
 雨が降る。大粒の雨がずっと降り続く。宮津も舞鶴も何にも出来ずに通り過ぎた。「若狭路」だけは何かがしたいとシーサイド小浜という道の駅に止まった。またもパソコンの電気が乏しい。ここはひとつ頭を下げてみるか。案内のおばちゃんに頼んでみたら館長さんが直々にお出ましくださって倉庫のようなところに案内くださって「ここなら気兼ねなく充電できるでしょう。」と言ってくだすった。他の人には言わないでくださいね、と言っていたけれど、ここで書いたら約束違反だね。でも、書いたけど言ってはいない(苦笑)。ともあれ、頭を下げるのも悪くないと感謝した。でも、暇つぶしに打った碁は散々だ。やっぱり旅の碁は荒れる。まあ、仕方ないか。
 さてこれからどうすっか。若狭の町を歩くこともこの雨じゃ難義だ。車の中ばかりも飽きてくる。時間はまだたっぷりある。さて困った。100%の充電が終わったところに館著さんが来て、「これからどちらへ」と聞いて下さるので今回の北限は東尋坊にしたいとか、原発を自分の目で見たいとか話をした。そうか、原発か。それで原発を見る予定だったことを思い出して動く事にした。
 5分も走らないうちに、大飯原子力発電所の案内が見えた。大きな半島の先端まで7kmとある。美しい若狭湾の淵を小さな魚村をいくつか数えているうちに着いた。といってもこの山を越えたら本体が見えるかなというところで、「立ち入り禁止」。私の車が近づくと、大雨の中3人もの警備員が、街中の警察官だってこうは反応しないってくらいに機敏に反応する。相当うしろ暗いことをしているように見えてしまう。
 建物すら見れなかったが、警備員の反応だけで来た甲斐があったと引き返した。次は鶴賀原発も見ておく事にした。途中、若狭町の看板が目に入った。どんな町なんだろう。少し遠回りになるけれどと思いながら、ハンドルを回した。雨に煙る大きな田んぼだけが印象に残る穏やかな町だった。「おお、これがオレの名字の原点か。」と納得した。ナビで鶴賀原発の位置を入れようとすると反応しない。さっきの大飯原発の時もそうだった。何故だろう。知られたくないのかと、要らぬ詮索をしてしまう。ネットで調べて、「明神町」の住所で調べてやっと見つけた。これも大きな半島の先端にある。
 今度は14kmとか。どれも人里はなれたところに作るもんなんだ。一度吹き飛んだらどこに作っても大差ないと思うけど、などと要らぬ事を考えながら、せっかく拝見するのだからとついでに調べたら、この鶴賀原発は相当古く、過去に放射能隠しなどの事件も起こしているらしい。現物を見ると臨場感があるもんだ。こっちは大きな建物が見える玄関口まで横付け出来た。警備員が寄って来たから、「大きいねえ」と声を掛けてみた。そっけなく、「ここは路上だから、すぐに車を移動してください。」と言う。癪だから、「一台の車も通っていないのだから関係ないんじゃないの。」って言ってやった。
 原発を見た。2つ見た。去年、福島を見た時から見たいと思っていた若狭湾の原発。やはり要らないという結論には変わりはないが、これは危険だという実感が沸いた。天下国家にあからさまに出来ない何かがあると現地の人間が態度で表している。たかだか電力ひとつ作るのに、この馬鹿げた施設は何だ。あの山の上を走る送電線ひとつでどれだけの太陽光発電が作れるのだ。そう、国は太陽光発電を進めるべきだった。いや、これからでも遅くはない。原子力に比べてどれだけ微々たる電力しか作れないかも分かるが、それは現在の人間の知恵の話。国が本気で取り組めば、可能性は幾らでもある。捨てようのない核廃棄物を残す原子力発電と比べるべくもない。
 宿は敦賀市内の温泉の駐車場にした。これも定番になって来たけれど、長旅の選択肢の一つとしては捨てがたい。なかなか美味いものにありつけないのが残念なところだ。今日も温泉食堂のから揚げと生ビールになってしまった。

2014.8.10
 風雨が一段と激しくなって、海岸線の○○ラインなんかが通行止めになって来た。越前岬や東尋坊に行けるかどうか、流石に不安にはなって来た。とはいっても、自分からアウトとは言えない性分。もし「ここからはアウトですよ。」って言ってくれれば、はいはいって諦めるのは構わないけれど。
 そんなことを考えて走っていたら越前岬は危なく通過してしまうところだった。岬の手前までは豊かに営む漁村が点在し、不思議な岩場が次々と現れて面白かった。岩石の色や形が急に変わって、これは一体なんだろうと思っているうちに越前岬は過ぎてしまった。慌てて戻って駐車場に車を入れて大して写す所もない日本海を2.3枚写した。東尋坊もこんな感じなのか?ちょっと不安になりながらいよいよ雨が強くなる中を走った。大きな工業団地が出来て大きな道路が一直線に貫く中を今回の最終目的地に急いだ。
 東尋坊の駐車場は空いていた。なのに、係りのにいちゃんは500円欲しそうに寄ってくる。急に癪にさわって、「この雨だし帰ってコーワイ。」と言ってしまった。まあ、どっか離れたところに留めてぼちぼち行くかと覚悟をしたら、「この雨だし、タダでいいよ。その辺に止めて行って。」なんて言ってくれた。ならばと素直にお邪魔して、東尋坊を見せて頂いた。いやあ、立派な観光地でした。大雨の中、たくさんの観光客がいて、傘が何度もぶつかり合う程。東尋坊が何だったかはそんなこんなで、あまりよく覚えてはいないけれど、何だか自殺するにはちょうどいい美しい断崖絶壁だったようだ。駐車場のにいちゃんには150円のラムネを差し入れして置いた。

 これで今回の旅の北限はどうにか達成することが出来た。明日は米原で女房と落ち合って、孫たちに会いに御嶽山の麓まで出掛ける予定だ。少し南下して琵琶湖近くまで戻っておこうと8号線を鶴賀近くまで寄せて、道沿いにあったショッピングセンターで遊んでいる間にどうやら台風が通り過ぎ、西の空が明るくなって来た。「このまま琵琶湖に下りるのはもったいないなあ。どこか行きたいなあ。」夕焼けまでは、まだ少し時間があった。来る時は雨で諦めた若狭湾の三山五湖。どんな風景に出逢えるのだろう。駄目で元々だ、行ってみよう。そんな気がむくむくって沸いて来た。三山五湖は大きな自然が今も残っていてご馳走が多すぎて迷ってしまう気分。どこにでも一泊の宿は作れそうだ。そう思うとこれがまた難しい。ずいぶんうろうろと走って、他に誰もいない静かな水辺を見つけた。これでやっと、納得の時間を過ごすことが出来だ。ビールが美味かった。

2014.8.11〜15
 11時に米原駅で女房を拾って、子どもや孫が待つ御嶽山へ。ひとり旅から家族旅行へと、がらりと様相が変わる。高速をふんだんに使い、待ち合わせの時間を気にしながら走る。女房の好みに合わせて、風呂や宿泊地を探す。
 まあ、これはこれでひとつの旅の形式だと分かり始めた。結局、今夜は駒ヶ根旅行家族村キャンプ場で泊まることにしたが、サイト料5700円を払うのはアホらしいので駐車場で寝た。それでも風呂代・メシ代・高速代と大金が次々と出てゆく。
 12日。御嶽山麓の胡桃島(くるみしま)キャンプ場がこの夏のオレらの家族キャンプの場所。「木曽の御嶽山は夏でも寒いよ〜。ヨイヨイヨイ。」の歌を思い出した。受付のおっさんは長袖のシャツを重ね着している。長袖?オレなんて非常用に一枚バッグに詰め込んだだけ。こりゃ、どうなることやら。
 息子・娘と歌って飲んで語らい、2人の孫の相手をしているうちに、2つの夜は瞬く間に過ぎて行った。寒い寒いと言いながら。14日。かなり激しい山道を下り、一般道を下呂から岐阜を通って、伊吹山のグリーンパーク山東まで戻った。女房はずっと後ろで寝てた。グリーンパーク山東で天麩羅作って食べたが、やっぱり自分で作って食べるのが最高だと、今回も単純な結論に至った。
 夜中の1時に暴走族が駐車場で騒ぎ出したので、さっさと諦めて退散した。琵琶湖で寝ようとか思って走ったけれど、すっかり調子が出て来て、琵琶湖沿いの小さな道を快適に走った。夜中はこの道が良いと覚えておきたい。京都から大阪、神戸をあっさり抜けた。朝6時に近くなり、周囲が騒がしくなって来たので、適当なコンビニで爆睡。一丁あがりって気分。
 2号線から瀬戸大橋、四国路は高速で走って、今回の旅が終わった。道の選び方も少しずつ分かって来たようだ。

 車中泊の旅の何が楽しいのか。キャンピングカーを買う前から漠然とした不安があった。バス旅行やホテルに泊まる旅と車中泊は、あまりに違い過ぎている。同じ旅行というジャンルに入れるには不似合いにすら感じる。
 先日、奈良の法隆寺に行った時のことだ。境内の中は10回以上も見ている。でも、法隆寺が奈良のどこにあって、周囲の町並みはどうなっていて、地域の中でどんな存在なのか。何にも知らなかった。自分の車で少し離れた所に車を置いて、チャリでふらふらしていたらこれらの全ての疑問が氷解して、境内の中なんて覗きもしないで大満足で車に戻った。これこそが車中泊の旅の真骨頂というところか。
 これまでの価値観に購(あがな)うのは簡単ではない。試行錯誤の旅はまだまだ続きそうだ。(^o^)



奥飛騨へ


2014.5.7

 2014年のGWが始まる。去年、上高地の方から見た雪を被った北アルプスを、今年は奥飛騨の方から見てみたい。29日、こんな思いひとつで朝4時に飛び起きて車中の人となる。一時間でしまなみ海道のPAまで、一気に駆け回って来た。もうすっかり旅の人の気分になる。 もしかして、もうこのままこの辺でぶらぶらしていても構わないんじゃないのって声も何となく聞こえる(笑)。雨に煙るしまなみの朝はいまいち趣きには欠けるが、まあこの際、勘弁してもらおう。
 久万のオフ会は楽しかった。同好の士の語らいは瞬く間に時が過ぎる。初心者よし、経験豊富もよし。多くを喋るもよし、寡黙もよし。音楽好きが2人になれば、これまた時間は幾らあっても足りなくなる。大好きな自然に囲まれて、大好きなビールを飲んで越し方の人生をつまみにゆっくりする。 これこそが車中泊愛好者の心意気ってところだ。
 さて、奥飛騨温泉探訪の旅。どんな事になるものやら。まずは無事に帰って来たいと願うところだが、道中、どんな事件やどんな思考が待っているか、いつもの事ながらうきうきする事は隠せない。 特に今回はリタイアまでもう一歩のところまで来ている仕事について、もう少し客観的に観察して、自分の人生の思いに穏やかな終止符を打ちたいものだと願う。まずは2号線を一日掛けて上って行く事にしよう。

 岡山辺りまで来たら、猛烈な眠気でたまらなくなった。 さださんの案山子なんかを歌ったら、暗譜で歌詞が出てくる。不思議に思った。そしたら次に、「知らない町を歩いてみたい。どこか遠くに行きたい。」と来たもんだ。自分でもびっくり。2号線の道が備前を越える辺りで鄙びて来て、ついこんな歌が口をついて出て来た感じだ。 慌てて適当な駐車場(備前陶芸技術館だった)で止めて、ギターに乗せてみたがかなりいける感触だ。ちょっと軽く一曲レパートリーに入れようか。近くの看板を見たら、「伊部駅」とある。目の前の崩れかかった双葉食堂の玄関を見て、ここでラーメンを啜りたいと思ったが、 まだ時間が早くうまくかみ合わない。残念だが次回ということにしよう。なかなか面白い時間だった。
 朝が早かったからどこかで眠くなるだろうと予想はしていた。伊部から然程()も走らないで、腹が減ってきた。マルナカでサンドイッチをゲットして、適当なところで食べようと走ったが なかなかお気に入りの場所が見つからない。しょうがないからコンビニか道の駅かと覚悟をし始めた頃、相生(あいおい)の手前で、ナビに小さな池?沼?湖>?、なんとも説明の付かない結構大きめの水溜りが出現した。迷わず車を入れたが、これが全く開発のされていない、 もう今の日本では希少価値ではないかという作品で、すっかり嬉しくなって、ほとりで淹れたてのコーヒーと一緒に美味しい朝食となった。ここで寝ると決めて、タオルケットを被ったら、スコンと眠りに落ちた。目が覚めたら12時。2時間寝たか、上々の始まり方だと思う。
  腹がいっぱいになったら、水辺で一局。美しい自然を眼前にしての囲碁の時間は至福の時と言える。特に難局を辛うじて制することが出来て拾わせて貰えると溜飲が下がるというもんだ。夢の時間が終わって、「さて、旅を続けるか。」と思った時に、自分が旅人であることの嬉しさもちょっと記憶に残したい。
 2号線は美しい。今回もこれを実感する事となった。道の広さ、信号のなさ、周辺の美しさ、歴史の深さ。惚れ惚れとする道の美しさを見せてもらったと思う。姫路はバイパスがあって走りやすかった。でも、明石の近くからは逃げ道は分からない。神戸の街中に突入しすると、 道はそのまま大阪に入って行くのだと今回初めて実感した。高速の下と、交差点の間を怒涛のように通り過ぎて大阪が近づき、そして、別の道に行く。今津・西宮・尼崎という文字が記憶に残るが、都会の喧騒の中で、頭も尻尾も分かったもんじゃない。ナビだけが頼りだ。 尼崎で高速に入った。一般道を諦めたといってもいい。予定の行動だ。京都を越えるには一般道は荷が重い。2230円も払って、やっと栗東に入国許可を頂いた気分だ。
 湖南市の山の中、十二坊温泉ゆららとかに世話になった。まあ普通の温泉だ。30日、4時半に起きて一気に動いた。 彦根まで出たので、琵琶湖に寄る事にした。去年のGW、雑踏の中の彦根城の記憶を思い出しながら湖岸に着いたら、竹生島行きの観光船乗り場だった。湖岸の無料駐車場は使えそうな気がする。

 趣味人のオフ会の残像が心に残る。楽しかったけれど、 人と喋るのがあまり得意ではない人間としては今回の経験はちょっと重たかったかもしれない。そんな事を考えていた。ここからは既に完全な旅に入っている。急がず良い風景に出会ったら、そこでゆっくりすることを心がけて進みたい。まずは7時まで、道の透いているうちに走るか、 いや、琵琶湖でゆっくりするか。こんなことでもまた迷う。 米原から21号線を走る。車も出て来た。信号も多い。それでも風情のある道が続く。突然、見覚えのある風景が飛び込んできた。醒ヶ井のJR駅前だ。慌てて駐車場に車を入れて歩いてみたが、早朝の駅に新しいものは何もない。 短い旧中仙道の景色を車中からちょっとだけ楽しんで元の道に戻った。
 醒ヶ井からは只管(ひたすら)走った。否、大垣でつい、きみ松旅館に寄ってしまった。去年、3000円で宿泊したダサい旅館だ。今でも営業してるのかと気にかかってしまった。どうやら元気に営業しているようだった。 ああ1時間もロスしてしまった。まあ、いいか。走り難い岐阜からスコンと進路を変えて山道に入っていった。雨が時々ザーッと来るけれど、大抵は曇りで処し易い。陽射しがなくてありがたいとさえ思う。彼方此方(そこここ)で買出ししたり昼寝を貪(むさぼ)ったりしながら、 どうにか最初の目的地、郡上に着いた。此処って観光地だったのよねってくらいに様々な土産屋が並ぶ中を、さくっと慈恩護国禅寺に着いた。工事中とか言っていたが、目的の茎(てっ)草庵には殆ど影響はなく、小時間、心ゆくまで厳しい禅寺の奥の深さを堪能させていただいた。 せっせと稼ぎたがっている割には、カメラは禁止だ、中庭には入るなと下手くそな経営が目にはついたが、精々気張ってやと思いながら気合の入った美しい空間を後にした。
   さあ、次は白川郷だ。五箇山はバスツアーで3.4回は行っている。でも白川郷は全く知らない。 郡上を抜けて1時間、どんどん山の中に入ってゆく。ガソリンは半分を切ったところか。心配はない筈。こんな山の中に大きな湖がある。恩母衣湖(おぼいこ)と言うらしい。開発されていない自然はやはり美しい。湖のほとりは今が桜の季節のようだ。大小・濃淡様々な桜の木が沿道を飾る。 まだ蕾みのヤツだっている。懸命に写真を写しながら走っていくと、突然、大勢の観光客が目に入った。これまた慌ててその仲間入りを果たす。ああ忙しい。どうやら樹齢○百年の桜の樹がお目当てらしい。これまた慌ててせっせと写真に納めてみたけれど、 荘川桜とか書いてあったが、あれが何だったのか今となってはちょっと不思議。まあ、いいか。
 車は、寄り道をしながら4時頃には白川郷に着いた。道の駅や高速を確認しながら、一番の観光場所のチェックも終えた。今日はこの辺で宿を探すことになるかと見渡せど、 どこもいまいちパッとしない。それはさて置きと白川郷探索に乗り出した。村営駐車場に入れようかと中心地に行くと、さっきまで入り口にいた警備員の姿がなく、すすすっと入って行けそうな気分。それならば取りあえずぼちぼち車で入っちゃうぞってなもんで、入ってみた 。誰も何にも言わない。それなりにたくさんいる観光客を避けて、広い保護地区をすいすいと車で移動して、ばしばしと写真を写した。どうやら車の規制は4時までで、あとは開放されているようだ。偶然だけれど、一応、合法的に車で乗り入れが可能だったということらしい。
 それで結局のところ、白川郷って何なのか。その答えはただひとつ、今となっては究極の観光地!それだけ!農業で食うよりは、観光で食う方が楽に決まっている。でもそれは、うたを忘れたカナリアだよってオレは思う。 この厳しい豪雪の山村に切り開いた祖先の知恵で出来た集落をこんな風にちゃらちゃらと世間ズレさせてしまった責任は誰が取るのか。残念だが、もう本物の白川郷はとっくの昔に消え失せていると認識すべきだろう。京都の永観堂の紅葉と等しく虚偽に走った美ほどおぞましくグロテスクなものはない。 まあ、観光客の一人が騒いでどうなる問題ではないけれど。
 暗くなるまでには少し時間がある。出来れば高山まで出ておくかと軽い気持ちで車を動かした。選択が難しかった。高速を使えば、85`、1200円。一般道は195号線が冬季の規制で使えなかった。一般道なら湖を戻るしかない。 125`。今日は一日、何かと金が出て行ったので、ちょっと我慢しようと思ったのが事を大きくしたようだ。底が見えて来たガソリンゲージを見ながら、暗くなり始めた西の空を恨めしく眺めて、来た道を戻る。辛抱のいる時間だった。さださんの、「本当は泣きたいのに」を何度も歌いながら、 時の過ぎるのを待った。高山の町の明かりが見えた時には、正直ほっとした。ガソリンも程なく補給出来て、いい温泉にも巡り合えた。

 オレが求めている旅は何か。またひとつ、大きな経験を積んだような気がする出来事だった。高山グリーンホテルで日帰りの風呂が1000円で入れると分かって 豪華な風呂を楽しんだ。ついでにもっと豪華にホテルの赤提灯になんて入ってちょこっと食べて飲んだら4000円。財布の紐が緩み始めると止め処もなくなる感じだ、恐いもんだ。5月1日。朝4時半に目が覚めて、行くところもないからその辺の寺でも見に行くかと、山の方の寺院街に向かった。 どうせたいした寺でもないだろうと思って着いてみたらびっくり。京都とは一味違う田舎臭さはあるが、それが逆に風情になって趣がある。すっかり嬉しくなって1時間以上も歩き回ってしまった。朝の清掃にたくさんの人が出ていて、寺がこういう人に守られているんだなあと感心した。
 さて、いよいよ奥飛騨に向かうとするか。小1時間ってところだ。起伏のある山道が心地良い。桜・辛夷(こぶし)などが一斉に咲き、よく手入れの行き届いた農地が少しずつ春の作付けを始めている。私はこんな道路を走りたかったのだ。少し晴れ間も見えて来た。川沿いを走っていると、 ふと飲料水が少し古くなってポリの臭いが気になり始めていた事を思い出した。この清流の水でコーヒーを飲んだらどんな味かするのかなあ、と思って車を止め、スタコラとポリタンクを持って川べりに降りていった。川の水をしっかりゲットして、ふと見ると「銚子の滝、1km」とある。 1キロなら行ってみるかと、また進路を変更。道端に残雪も残ってビシッと寒いけれど、雨上がりの滝は水量も豊富で、人っ子一人いない迫力満点の滝を楽しんだ。すぐ下の駐車場が気持ち良かったので、さっきのコーヒーで朝食。申し分のない味のドリップコーヒーを楽しんだ。 さてとっと、ここでギターを出して弾き始めたらもう止まらない。壊れかかった粗末な橋の上でザーザーと轟音を轟(とどろ)かせて流れる川の水に負けずにおおきな声を出した。うむ、爽快だ。
 奥飛騨温泉郷の中の平湯温泉に神の湯という名の温泉があるとネットで見ていた。営業時間はアバウトらしいが、朝からやっているとか。今日はこいつから攻めるつもりでいた。平湯の温泉街に到着した。まあ典型的な田舎のゴ−ジャスな温泉街だ。でも、お目当ての神の湯らしき存在はない。 道端に張り紙がひとつ貼ってあるだけ。ナビは反応してくれなかったので諦めながらももう一度、「平湯温泉」で出してみたら、外れの山の奥に擦(かす)れた文字で「神の湯」と読めた。5分ほども山道を上がっていくと、やっと樹を切り開いただけの粗末な駐車場が見えた。 すぐ上のこれまた途轍もなく粗末なプレハブ以下の崩れかかった小屋で500円を払い、そのまま20メートルほども歩いて行くと男風呂があった。その上には女風呂があるらしい。なるほど、これが神の湯か、納得だ。命名ひとつでこれ程にちっぽけな露天風呂が荘厳新たかな神々しい風呂になるのだ。 何も手を加えない自然のままでいいのだから施設設備は一切更新しなくていい。ゴム管の湯元も半世紀前の蛇口も剥(む)き出しの黒いビニールホースも、きっと全部神の思し召しなのだ。こんな罰当たりなことを考えた所為か、風呂からあがったらすっかり気持ちよくなって、 すこんと2時間以上も寝てしまった。でもまだ、昼前さ。

 この日はついに快晴。待ちくたびれた夜が明けて、8時半の新穂高ロープーウエイ開始に合わせて出掛けていったら、もう相当数の人が集まっていた。中には重い荷物を背負った登山客も結構いて、オレみたいな軽装備では場違いかと心配になる。2900円。 高い金を払って頂上まで行った甲斐があった。好天気にも恵まれ、槍ヶ岳・笠が岳・西穂高・焼岳などが眼下に広がる薄雲とともに白い雪を被ってすっきりと見えた。前後左右に広がる北アルプスの大パノラマを、これが見たくてここまで来たんだという思いと共に、大感動を持って見た。 頂上付近はまだ2.3メートルの雪が残り、地面が出ていない。ここだけはまだ真冬なんだ。重装備の登山客がアイゼンを履いて嬉々として出発していた。こそっと無事を祈った。
 そそくさと山を降り、最後の目的地、露天風呂から槍ヶ岳が見えるという触れ込みの槍見館に出向いた。ここでひと悶着。数ある露天風呂の中で、槍ヶ岳の見える風呂は今日は清掃のため使えないとか。「それじゃあ、何のために分からないじゃないか。」と入り口で揉めたが、 男女混浴の風呂からも見えるということで、もっと納得(爆笑)。大きな川に沿って作られた露天風呂は迫力満点。本当に向こうの方からは若い女性の声なんかも聞こえて来て、こっちの男連中はみんなびびってる。まあ、そんなことより槍ヶ岳を眺めながら風呂に入ることも出来て、 これで今回の旅の全ての予定を完了することが出来た。

 さあ帰るぞ。ナビを自宅にセットしたら一般道で松山まで14時間と出た。何日走ったら帰れるかは分からないけれど、ともあれ41号線を下呂温泉を横目に、もう温泉は暫くいらないと思いながら琵琶湖まで走って来た。そうそう、行く時に関ヶ原の「すきや」で朝食を世話になった。 帰りも同じ店の同じ駐車場に車を置いて、同じ座席で夕食を世話になった。数ある店で、こんな偶然も嬉しい。今日の宿泊は琵琶湖湖畔の行く時に見つけておいた超穴場。しっかり世話になっちまった。
 3時に起きて、またひたすら走った。朝、暗いうちに京都を抜けたかった。 女房と高松駅で待ち合わせている12時には瀬戸大橋回りの一般道でも絶対の自信があった。朝7時、豊橋のインターの入り口で、京都南まて60分・西宮まで40分の渋滞!と書かれていた情報を、「ふん、下道のオレには関係ないもんね。」と見過ごしてしまった。 神戸市内を越えるのに予想以上に時間を費やしてしまった。これじゃ明石海峡大橋を使う方が安全か。でも下道でも1時間以上も余裕だ。途中どこからでもインターに乗れたが、「節約、節約!」と2号線でぎりぎり舞子まで行った。坂道を登って、さあインタ入り口の交差点だ、 という100m手前でぴたりと車は止まった。右折のこっちの車が6.70台。左折の対向車線は次々と並ぶ。入り口に車が殺到しているのだ。「連休で四国に渡る人が殺到しているのか。みんな暇だなあ。」まだ、その時は事の重大さに気づいていなかった。 この先の本線に出るまでに3箇所の合流地点があり、すべてこの状態だった。つまり車が動かないのだ。目の前の信号機が赤から青に変わるまで良くて3台、1台も入れない時もある50台先のこんな光景を眺めている内に、やっと事の重大さに気がついた。 「こりゃ、間に合わない。あの豊橋の情報を見た時に気づくべきだった」。しかし、すでに成す術は何もない。覚悟を決めてこの交差点だけで1時間以上。本線乗るまでにまた30分。高松までの方々で渋滞。全部高速にしても予定の12時は遥かに越えて12時50分の到着となった。 恐るべし渋滞。肝に銘じておこう。

 女房と合流し、イオンの近くの「しんせい」と言う地元の人が集まるうどん屋で最高のさぬきうどんを堪能し、先日オフ会で世話になったことなみどき土器キャンプ場に来た。すでに30台は集まっている。ここはキャンパーには人気スポットなのだと感心しながら、 川沿いの一等地に停留場所をゲットした。星のよく見える最高の夜となった。美しい三日月、火星、木星が雲ひとつない夜空に瞬き、ネットと持って行った星空探訪の本で、春の大三角形や、春の大曲線を楽しんだ。車中泊万歳!と叫びたくなる時間だった。 この時期からの野外活動は相当に味わいがある。4日は徳島のふいご温泉でゆっくりし、美濃田の淵で一泊して松山に帰った。こんなゆっくりした2日間も車中泊らしい。1806kmの遠出もよし、近場もよしってところだ。




    

  2014.2.14


今日もネットで囲碁を楽しんでいます。
多い日には数えてみたら一日に6局も7局も打ってしまっているのですから、
もう相当の中毒だと認めるしかありません。

 でも、このところ打っているのは長く馴染んだKGSではないのです。
サンサン棋院という名前の日本のサイトです。
福島のいわき市に会社はあるようです。
1ヵ月1050円の有料サイトです。

 KGSは無料で世界中の人がたくさんおりました。
力勝負の碁が多く、それはそれで楽しく遊ばせて頂きました。
ただ、まだまだ血の気が多い人間な者ですから、
マッタやエスケーパーならまだ諦めもつくのですが、
下手にはいくら勝っても勝敗のグラフが伸びず、
ひとつ負けるとスコーンと落ちるシステムにはすっかり閉口してしまっておりました。

 そんな訳で新しい囲碁サイトを探していたのです。

 さて、そのサンサン棋院ですが。
殆どのみなさんが本名で対戦され、
もう30局ほど打ちましたが
マッタをされたり突然逃げられたりということは一度も起きておりません。
実に気持ちよく囲碁の世界に浸ることが出来ております。
ありがたいことです。
もちろん、勝ち負けのグラフは
どんな人と打っても勝てば上がって負ければ下がるようです。

 実は、このサンサン棋院の対局ソフトをダウンロードしてから昨日まで、
ずっとチャットの欄が開かず、
「エクスプローラーでは表示できません。」と嫌な文字が並んでいました。
福島の事務所に電話をかけて窮状を訴えましたが、
西田敏行さん風の美しい訛りの福島弁で、
「今までこんな話は一度も聞いたことがありましぇん。
OSかプロバイダーの問題ではないでしょうか。」
と言われます。

 これから長くおつき合いを願いたいと思っているので、
必死にウインドウズや四国ネットのローカルなプロバイダー、
ついにはいつも世話になっているパソコンショップにまで出掛けて行って、
訳の分からないコンピューターの世界のお勉強をしました。

 そんな中で、プロバイダーのお兄さんがこのサンサンネットのURLから
チャットのファイルとフォルダーが入っていないことを突き止めてくれました。
いやいや、私にはさっぱり訳の分からない世界を
実に理路整然と解き明かしてゆく説明に、深く感動を覚えた次第です。
この人が囲碁を覚えたらきっと強敵になるだろうなあ、
なんて全然違う脳ミソでそんなことを考えていました。

 改めてサンサンネットに電話をして事情を話すと、
「いやいや、そんな事はあり得ない。
私のパソコンにはしっかりファイルもフォルダーもありますよ。」
と、ここまで話した時に、
アぁ!と素っ頓狂な声を上げて、
「ちょっ、ちょっと待って下さいね。」なんてごそごそ30秒ほども調べて、
「ああ、分かりました。前回のサイト更新の時に、
このファイルとフォルダーを入れ忘れておりました。
これまでの会員には影響はないのですが、新しい会員には表示されません。」

 ははは。。(=´ー`)ノ

 程なく、
「1月29日以降に新しくサンサン棋院のソフトをダウンロードされた方は、
改めて再インストゥールして下さい。」
と1ページ目の表紙にでかでかとテロップが出ています。

 いやいや、そんなこんなでインターネットの世界が
これほどに身近で微笑ましく思えたことはなく、
ますますサンサン棋院に惚れ込んでいる昨今です。d(゜∀゜)b good!



3166` 9泊10日 キャンピングカーの旅 イン 福島


2013.5.10

準備編
 日いち日と、ゴールデンウイークが近づく。こんなにわくわくして一日が過ぎてゆく感覚はいつ以来のことだろう。小学生の修学旅行以来か。これまでの3回の経験を何度も読み直し、今回の旅をどんな風に組み立てたら良いかを考える。 こんなに真剣にひとつの旅を始まる前から考えたことがあっただろうか。ないよな(笑)。考えている中で9泊10日のフクシマへの旅が徐々に膨らんで来た。キャンカーを買って半年。いよいよ初の本格的な旅をするにあたり、一度は自分の目で東北の大震災を、 特にフクシマ原発の事故のその後を見てみたい。この結論に至り、それなりに下調べをして、今一般の人間が入り込める北限、楢葉(ならは)町まで行ってみることとした。一週間掛けてじっくりと必要なものを積み込み、満を持しての出発。

4月27日
 普通通りに朝食を済ませ新聞を読み、普通通りにネットのチェックを終えていざ出発。電車や飛行機の時間に合わせる必要のない、これがキャンカーらしい旅立ちだといえるのか。でも、何となく忘れものをしたような拍子抜けした力の入らない感じもある。
 松山を出て新居浜に差し掛かる頃、メガネの掛かる左鼻のところが刺さるように痛い。メガネを外してみると、鼻に乗せる部品が外れてどこかになくなり金具がむき出しになっていた。おいおい、これで10日間過ごせっていうのかよと、少しぞっとした。早速の事件だ。松山のメガネ屋に電話をしたら、どこか近くのめがね屋さんで直してください。たぶん無料でやってくれます、ってさ。そんなもんかねって思いながら暫く走るとメガネのミキなんて看板が目に入って来たのでレジ君を止めて世話になった。丁寧に直してくれて、しっかり無料。一時はどうなることかと思ったがなかなか爽やかな開始のセレモニーとなった。メガネの事件。
 今回の旅は出来るだけ一般道を走りたいと決めていた。一般道にはそれぞれの土地の息遣いや思いや暮らしが感じ取れるのではと期待していた。瀬戸大橋・児島坂出ルートなんて呼んではいるけれど坂出で乗って児島で降りてみて、おおこれが瀬戸大橋かって納得。高速の一部じゃ何の感動もなかったが、瀬戸大橋だけ切り取ると偉大な建造物だと感謝したくなったりする。児島で降りて国道2号線。これが楽しみのひとつだった。前回ちょっとだけ走ってみて、こんな道路が走りたいのだと感じていた。旧高速道なのじゃないかと思う。気持ち良い走りの中に一般道の緊張感も持ち合わせている。当然のように神戸市内のど真ん中に入り込んで夜を迎えた。どこかで温泉!どこかで旨いものを食って!どこかの道の駅で熟睡を!と、こんな夢がガラガラと崩れる。ナビが教えてくれる温泉は期待外ればかり3つ行ってコリャ駄目だとギブ。それに、考えてみれば街の真ん中に道の駅はないのだね。うろうろ走っている内に尼崎の焼肉屋に世話になることにした。まあまあの焼肉とビール2500円で一泊の地を得る。店には余禄、こっちは本懐を果たした!ってことにしておこう。走行408.8`

4月28日
 6時半にスコンって起きて、そのままエンジンをかけて出発。気分良いねえ。長い旅になる覚悟だった。滋賀から米原を通って走るつもりが、ナビが大阪を通って伊賀から鈴鹿に抜けろと言う。何、また街の真ん中を通るのか。お前は街中が好きだなあ。まあ、早朝なら車も少なくて大丈夫かなって、半信半疑で大阪市内に滑り込んでいった。大阪って整備されたいい街だね。とっても走りやすかった。この辺でふと考えた。今まで高速ばかりだったから、混雑する街中は避けて・・なんてことを平気で考えていたけれど、そもそも道路ってヤツは街の真ん中を通るように出来ているんじゃないの?。そりゃそうだよな。人間の往来が道路を作ったのであるから分かってみると当然。ちょっくら納得。
 木津川が美しかった。奈良を出たあたりから鈴鹿まで、また旧高速みたいな道路に出くわした。楽しかった。名古屋だけは高速を使った。旅は一般道路が楽しい。暮らしが見える。歴史が見える。自分の生き様と重なる。浜名湖がすごかった。大きくて見ようがなくて、15分では到底無理だ。改めて出直すと決めて諦めた。それでも時間が押して来たので、静岡までは高速を使った。こういう手段があることはありがたい。この頃、囲碁とドライブの類似点を考察していた。ベストを追い求めて必死になってしまう辺りがどうやら似ている。つまり性格が出るってことか。瞬間で生死の判断を求められるのも似ているかもしれない。ドライブの方は本物の生死だけど。
 あこがれのフォッサマグナ、近づけど何の標識もない。もし見つけられなかったら、というのが一番不安だった。ここのはず!ってところに看板一枚だけで確かにあった。古生代の古い岩盤と新生代の新しい岩盤が全く違った風景を作り出すという空想に描いていた風景ははっきりとは見分けられなかったけれど気分では感じられた。山の形が確かに違っているように見えた。それに、新旧の岩石の違いは素人の私でもよくわかった。早川町の宣伝が下手なんだよ!
 そこから一時間半で河口湖。フォッサマグナを追いかけている時には、探しても見つからなかった富士山が、短いトンネルを抜けた瞬間に、本栖湖を前にくっきりとオレンジ掛かって現れた時には、驚きと感動が瞬時に襲った。必死にカメラを追って、夕日に映える暮れてゆく富士山と格闘した。950.6`、今日の走行距離541.8`目茶目茶だね。一日中、10時間以上は走っていた。こんな旅は無意味だ!とは言えないようだ。走っている中にロマンが在った。暗闇の河口湖・道の駅かつやまにて漠睡。

4月29日
 5時になっていなかった。ほんのり明るくなった外の様子を感じて寝ぼけ眼で飛び起きた。ともあれチャリンコを引っ張り出して組み立てて、夜明け前の河口湖を写そう。でも、外に出てみたら、ここはどこ?の状態。昨日は暗くなってからこの道の駅に入ったから周囲の状況が全然分からない。「おお、これが河口湖か!!」なんて目の前の何とも美しい湖を見入って独り言を吐いた。そそくさとチャリンコに乗り周回軌道に、しかし寒い。10度はない。手が異常に冷たい。手袋が必要だったか。ううむ。それでも300mは頑張った。美しい河口湖の・・。待て、何かが違う。そう富士山はどこ?どこにも富士山がいないことに気づき、はたと考えた。こりゃチャリでは埒が開かない。背中の、後ろの方に彼はいる筈だ。こうしてまた300m必死に戻る事になった。レジに戻り太陽さんが顔を出す前に絶好の被写体に遭遇したい。こりゃ一端(いっぱし)の写真家気取りだわさ。予想通り湖の反対側に行ったら、ばかでかい富士山が真っ白な姿をぬうって現した。いやまあ、晴天で風もなく絶好の写真日和だったということで、目いっぱいアマチュア写真家になることが出来た。
 普通の道は必ずその町の中心を通る。考えてみれば至極当然のこと。やっとそのことが解せた。今日は楢葉を目指して行けるところまで行くと決めてナビに言ったら、ヤツはこともなげに東京都のど真ん中の道を示した。昨日までのオレなら、おいおい冗談だろって彼をなだめた事だろう。しかし今日のオレは違っていた。オーシ分かった。やってやろうじゃないの!別にどれだけ時間が掛かっても構わない。道ってのは、こんな風に出来ているんだよな。相棒!納得!!
 東京は面白かった。いやあ、六本木に行った訳じゃあないんだよ。車からは一歩も出なかった。トイレ以外は。富士山から降りて来て、いつまでも田舎の風景が続いた。いつになったら都会が出現するんだよなんて、正直思ってた。そう、新東名が出来て、古いナビ輔は都合が悪くなると黙り込むのも知ってはいたけれど、結構危険な時もあった。
 トイレ事件。東京のど真ん中の記憶は…。
 あっ、揺れている。今、揺れている。これはオレの知らない揺れだ。当然のように習慣化されたどんよりと大きな揺れがオレを襲う。これが余震か!びしびしっと感じる。と、この時は真剣にそう思ったけれど、後から考えると単なるレジの揺れだったかも。。
 新宿4丁目を車で走った。東京に車で乗り入れるのは、これが2回目。でも数年前の前回は高速と首都高だけ。一般道は全くの知らない世界なんだ。なにが起こるか、生きて帰れるか、相当の覚悟で臨んだ(つもり)。甲州街道は美しかった。八王子あたりは可愛らしかった。でも、この頃に尿意をもよおし始めた。この時すでに嫌な予感がした。隣にある買い物袋が尿瓶に変わるのじゃないかと悪い予感が走った。懐かしの大学受験で世話になった国立市、そして府中・田園調布。聞いたことのある地名が次々と目の前に姿を現す。そして都心が近づく。入り組んだJRや首都高の立体的な複雑な造形の中を、元祖の道路がしっかりと主張を持って息づいている。どこに出るかも全くよくも分からないながら、そんなトンチンカンな思いの中をレジが走る。突然目の前に、追突した2台があらわに止まっていたりする。ううむ、これが東京だ。膀胱は新宿4丁目でピークになった。レジ袋の世話になるかと覚悟を決めたとき、ガソリンスタンドの看板が見えた。これしかない。すーっと入って、「トイレ、貸してください。」なんと簡単なことか。
 東京のど真ん中を通り、レジアスは快調に国道6号線を北上する。牛久という所まで来て昼飯にした。朝が軽かったので、ドーンとラーメンライスの大盛。これが重すぎた。しばらく苦しい思いをすることとなった。旅の食事は難しい。今日は行けるところまで行くと決めていた。案の定、辺りが暗くなって、どうやら限界だ。いわき市の手前のようだ。いつものパターンでコンビニを見つけてバタン、グー。全く気楽だ。
 明日はいよいよフクシマ。若干、心は重い。それが当然の話かも知れない。何に出会うのか、神のみぞ知るってか。合計1382`走行409`

4月30日
 4時半には目が覚めた。外は仄かに明るい。どうせ何もすることはない。一気にエンジンを掛けて動き出した。早朝の国道6号線は大型トラックがチラホラ走る程度で、うちのレジ君は気持ちよさそうに疾走する。南相馬の標識が急に多くなる。突然、真っ赤な文字で48キロ地点通行止めの文字が飛び込む。分かっていてもドキッとする。いわき市から北上を続ける。いよいよ車はまばらであちこちに震災の残骸が残っているはずだと思って進んで行けども、明るくなって増えてきた車は一向に減る様子もなく、周囲の民家は震災の傷跡など感じさせない普通の豊かな日本の朝の風景が繰り広げられる。そうそう放射能汚染は?っつったって測定器も持たないで実感できるはずもないことは知っていた。福島第二原発の3本の白い大きな煙突が「オレは健在だ」と主張しているように感じる。(実はこれは別物の火力発電所らしい)。道の駅「ならは」は、今回の究極の目標。ここまで1350キロを走り抜いた。予想通りの休館中で、臨時の警察署になっていて20台以上のパトカーが整然と止まっている。道路に大きな段差が残っていて、車がガタンといった以外には何の変哲もない寂れた道の駅だ。
 「ならは」の駐車場でここまで書いていたら、突然、おまわりが2人で職務質問だわさ。きちんと駐車スペースの止めろってさ。びっくりしたなあもう。
 楢葉からもう少し行けそうなので、行けるところまで行こうと思って車を進めた。19`まで入ったら富岡町という町があった。国道のど真ん中で警察官が14.5人も出て規制をしていた。どうやらここまでだ。ここに入ってくる途中で、急激に景色が変化するのに気づいていた。国道沿いの商店や会社や工場や住宅には全く人の気配はない。何本か道路を中に入ってみた。多くの家は背高泡立ち草に覆われながらも原型を留めていたが、人はいない。これが住民の避難という意味か。かろうじて2.3軒、車が止まっている。戻って来ているのだろうか。しかし、食料品店もガソリンスタンドもコンビニも塾も(失礼)、どこもやっていないのだから暮らしようがなさそうだ。この辺りは、4月1日に住民の帰還が許されたばかりらしい。
 港に出てみた。津波の被害の跡は。残骸の多くは撤去したのだろうか、何もない野原が広がっているように見える。でもちょっと地面をみると、ここに豊かな暮らしがあったのだと土台のコンクリートが伝えてくれる。振り返って周囲を見回すと、ぐちゃぐちゃになって残されている家や車が散在。道路ははがれて通行不可能なところがたくさん見られ、そのまま殆ど手つかずの状態になっている。津波のあとすぐに原発事故で立ち入り禁止になってしまう。そして2年間以上放置されたままになっているという、そんな現場に入り込んだようだと、やっと認識するのに多くの時間は必要としなかった。これを復旧するにはどれだけのエネルギーが必要なんだろうと考えてしまう。
 オレは何を見に来たのだろう。確かに見た。本物の惨状をこの目で見た。厳粛な気持ちにはなっている。当然笑顔は出ないが悲しさは感じない。ぼんやりと見つめている。ここから北の海岸線は全部こんな状態なんだよなと、また思い込む。この町に暮らしていた人たちは今どこにいるのだろう。あの住めなくなった立派な家の借金はどうやって払っているんだろう、あの大きな工場で働いていた人たちは、別の働き口はあったのだろうか。この町に戻って暮らすことはあり得ることだろうか。これに加えての原発事故なんだ。こりゃ、泣きっ面に蜂もこれだけ大きくなると笑うしかないかもしれない。オレなら、とまた考え込む。やっぱ、ちょっと分かんないなあとかで済まないんだよ、これは。自分に怒っている。
 今回の旅は豊かな日本の風景をたっぷり見てきた。目の前を流れてゆく日本という国の景色は本当に見ごたえがあった。この風景はきっとこの東北という地方にも当てはまっていた筈だ。でも、いまここには曲がった電柱と走れない道路と見えない放射能と警戒の警察官しか残っていない。
 ここにいても苦しいことしか浮かばないので、福島に向かう事にした。ナビが警戒地域ぎりぎりのコースを選んで福島まで2時間。山の中に入ってもうひとつ発見。そうか大地震があったんだ(ひんしゅくものか?)。道路があちこち陥没して片側通行、簡単な工事用の円錐形のポットが置いてあるだけの場所がいっぱい。そして農家の家は古い作りの物が多い為か、地震で壊れ避難地域に指定されて放置したままって建物があちこちにあって、これがまたひどい。山あいの村落に人がいないと、こんな風に朽ちてゆくのかと黙って見せていただいた。川内村に入ると避難地域ではなかったようで、豊かな田舎の風景が戻って来て、ほっと気持ちを撫で下ろした。人が住まない村落は味気のない無声映画を見るような心地の悪さだった。
 福島に入った観光客に戻ろうと予定して花見山公園に出向いてみたが何の意味もなく時間の浪費に終わった。携帯の電池が危なくなっていたのでソフトバンクを調べて充電のお願いに上がった。ついでにどこかいい温泉がないかと聞くと、北の方では飯坂温泉という名前を挙げてくれたので、これなら昨日のような失敗はないだろうと信じる事にした。そう、昨日はいわき市の辺りで5.6件温泉を探してアウト、野たれ死んだのだった。(この場合の野たれ死ぬとは、道端のコンビニで食にありついてそのまま寝ることを意味します)。今日のは見事な温泉だった。やっぱり、地元の人に訊くのが一番。3日間風呂にありつけず、すっかり汗まみれになっていた疲れた身体がビシッとリフレッシュした気分になった。周りは温泉街。様々な店が軒を連ねている。オレは風呂に入る前から一軒の赤提灯に的を絞っていた。暖簾を潜ると気のいい女将が出迎えてくれて、これぞ本物の赤提灯と、すっかり気を良くしてうまいビールを飲んだ。
 分かって来た。この震災は大きく3つの被害が混ざり合っている。地震によるもの、津波によるもの、そして原発によるもの。この3つが複雑に混ざり合っている。地震と津波は天災だ。こう信じて来た。だが、それにも違いがある。地震で壊れなかったが津波には勝てなかった家。地震にも津波にも勝ったが放射能で住めなくなった家。生きて暮らして行けなくなったと言う意味では一緒だが、きっといろいろな無念が渦巻いている。複雑だけど見えて来たと思った。
 ところが赤提灯の女将が、酔い始めた頃に辛辣なことを言い始めた。
「原発の被害者はとんでもない補償を受け取っている。」
 それぞれの金額を書くのは気が引けるから、まずは並な金額じゃないらしいと記しておこう。様々な実例が女将の口から飛び出す。アパート暮らしだった子ども2人の4人家族が受け取る金額、8人の大所帯が月額で受け取る金額。福島に住む女将は、一時金で8万円だけだったと怒っている。この人で8万か、リアルだ。この話を聞いて今日オレが見て来た風景は大きく様変わりすることとなる。自然災害で死んでいった人たちは仕方がない。自然が起こした覚悟の上での憤死だ。でも原発で住むところを失った人の苦しみはいかばかりかと思い計ってここまでうろうろ遣って来た。ところが原発の被害者は相当の補償が確保されていて、地震や津波の被害者は見舞金程度とか。原発の被害者が最悪じゃなかったのか?一体、どう考えたらいいのだろうか。心がうろうろする
 東北の人がおとなしい。それはどこかで疑っていたかもしれない。これだけの被害を受けて甘んじている。凄い忍耐力だ、と感心していたのか。でもそれは違っていたのかもしれない。国や東電が出来る限りの補償を示したとすれば、すごい補償になることは想像にかたくない。地震・津波・原発の三重苦が一番苦しいのかと思い始めた瞬間、女将は、一番富を得ていると一刀両断した。それってホント?ありえない・・・。
 「私の知人は6人が亡くなった。」女将の独白には言い知れぬ迫力があった。双葉町の人たちは震災前から東電にはよくしてもらっている。不満なんていう訳がない。一人、月に8万円ずつ支給されている。18歳以下の子どもは16万円。8人家族の知り合いなんかは、もうウハウハ。飯館村の人たちが一番大変だった。こんな話が耳に残った。合計1536`走行154`

5月1日
 明るくなって目が覚めた。満車に近かった駐車場は他に一台もいない。早くにエンジン音が聞こえたから5時くらいには出たのだろう。昨日、話に出た飯館村に行ってみようと決めていた。ナビ輔によると40数キロ、小一時間ってところだ。勇んでアクセルを踏み始めてすぐ、どうも腹具合が良くない。昨日の焼き秋刀魚の味がいまいちだったのを思い出した。結局、何度かコンビニのトイレにお世話になるという落ちつかない事になってしまったが、それほど痛みもしなかったからよしとしよう。飯館村には順調に到着した。少し手前の「霊山」道の駅というところでトイレに入ると、何かの測定器が0.523hGy/hと表示していた。放射能量かと思っている。途中で通行止めもあり得るなと覚悟していたのに、こう無事に到着してしまうと返って拍子抜けする。村人たちが特に避難した様子もないし、豊かな村だ。立派な村役場の裏手に除染した土の入ったおびただしい数の袋が並べられ、土木作業の人や車が頻繁に出入りしていることくらいに少し緊張感が感じられる。これがあの女将の言う大変な村なんだろうか。分からなかった。
 このまま帰るのも切りが悪いと思い行けるところまで行ってみようと決めた。道はあの南相馬町に続いている。国道には往来の車がたくさん動いているから、どうやら行けそうだ。南相馬町も普通の暮らしぶりに見えた。次の原町を越えたところで海に出てみた。ナビ輔は原町区下渋佐と表示しているが、辛うじて通ることの出来る道路以外には、やはりここも一面何もない。もう忘れ去られた場所になってしまっているように感じた。数分前の人の暮らしのざわめきとここの静寂の差をどう表したらいいのだろう。少し走るとほんの数メートル高かったから生き残ったと思われる家が2.3件、これまた普通の佇まいを見せている。この家の人たちは幸せだったのだろうか。本当の地獄を見ているかもしれないなんて、分かったようなことを考えていた。「この先、通行止め」という看板を横目に見ながら行けるところまでと進んでいたら、とうとう浪江町の入り口まで来てしまった。ここには警察やサンはおらず、町民かボランティアか、数人の人が丁寧に対応されていた。神妙に、「見学させてもらいに来た。」とだけ告げて、私の東日本大震災の実況見聞の終わりとした。
 ナビを猪苗代湖湖畔にセットして阿武隈山地を越えた。立ち入り禁止地区を避けながら福島に抜ける方法は昨日に続いて2回目だから、そう失敗もしなかった。
 ずっと考えていた。地震と津波は天災だから、もし、その身に降り掛かった時には覚悟を決めるしかない。でも原発の事故は人災だ。人間が作り出した災害だ。被害を受けた人は浮かばれない。ここに至って、旅立つ前のこの信念は大きく揺らいでいる。地震の被害と津波の被害と原発の被害は、それぞれが絡み合っている。これに補償問題が加わると、もう私の思考能力の限界を超えている。原発の被害者だけは東電と国から手厚い保護を受けているとなると彼らの被害の実態には迫れない。今日(8日付け)の新聞が、「警戒区域再編、帰還遠のく」の見出しで、現状を報じている。中に、「区域の線引きにより土地や家屋、精神的被害に対する東電の賠償額が異なるから」という表現が目に入った。今までなら見過ごしていた違いない。やはり明らかに賠償が出てくる。
 私が感じているのは、この原子力発電の開発にこれまでどれだけの国費や税金、そして国のたくさんの優秀な人材が投入されたことか。作るのに計り知れないお金が掛かり、維持するのにもまた途轍もないお金が掛かり、そしてこの災害復旧と補償に巨額のお金を必要としている。加えて、国を動かす程の力を持ったたくさんの優秀な人材が人知れず臍をかんで人生を終える。この美しい日本を放射能にさらして実行するほどの価値が原子力発電にあるのだろうか。そうとは到底思えない。アベノミクスだから大丈夫か(ぼそ)。
 今、太陽光発電が脚光を浴びていると言う。門外漢だから勝手なことを書くけれど、もし国が東海村の原発を作る時に、太陽光発電に舵を切っていたら、もっと違う世界に私たちは住めたのではないかと思ってみたい。悲劇は、地震と津波だけで巨額のお釣りが来るくらい充分だ。原発が、彼が言う「美しい日本」を最も壊している皮肉を笑いたい。目の前で猪苗代湖が暮れて行く。この湖はなんと開発されていないのか。まるで自然のまま取り残されているように見える。通りすがりの温泉に身を埋め、ナビに頼んでコンビニで食材を仕入れ、湖の水辺という最高のセッティングでビールを飲む。昨日の赤提灯とはがらりと変わる時間にちょっくら嬉しい。合計1811`走行275`

5月2日
  猪苗代湖は4時過ぎに無理やり起きた。外がぼんやりと明るくなって来た。このタイミングで湖と対峙したかった。どんな写真が写せるか。期待していた。寒いことはもう覚悟の上だ。持ってきたものを全部着ても耐えられるか。どうやら外は2℃らしい。松山じゃ、真冬の朝だ。湖はパシャーンとかわいらしい波音を立てていた。対岸に明かりが見えた。東の空はうっすらと明るい。確かに野性味あふれる猪苗代湖ではあったが、曇って磐梯山も写せず、オレの下手くそな腕では感動に残る作品には出合えなかった。寒くて手がポケットから出せなくなって一巻の終わり。三脚がこんなに冷たいと思ったのは初めてのことだ。しゃあない。
 今日は埼玉の志木に住む息子のところに5時前までに行く事になっている。早くても遅くてもまずい。面倒なもんだ。そんなことを考えて走っていたら、すぐに眠気を感じた。早速、最寄りのコンビニの駐車場にお世話になって、しっかり2時間爆酔した。それでも数時間はゆとりがある。ふと思いついて、ナビにいいところを知らないかって聞いたら、近くに小峰城ってのがあるという。ちょっと観光する事にした。別名、白河城。なんとあの寛政の改革の老中、松平定信の居城ということで、びっくり。道理で華やかな作りの天守閣だわいと勝手に納得した。外から見えた時には、しっかり期待が持てたのだが、震災で石垣が崩れ暫くはお預けとかでアウト。あらあらこんなところにも震災かと、がっくり。変わりに近くの南湖という小さな湖に寄ってたくさん写真を写した。持って来た折り畳みチャリがちょうどよく、初めて役に立ってとっても満足。那智岳が美しかった。
 息子の家に着き、孫に歓迎をされ、旨い晩飯を頂いた。酔っ払って来て、それまでオレの話に相槌を打っていた国立大学の工学部を出た息子が、強い口調で言う。
「おやじぃ、原発がどれだけの電力を供給しているか知っているのかい。太陽光発電でどれだけの電力が作れるか分かっているのかい?」
 まあ、適当な数字は知っているつもりだが、そう言われてしまえば夢物語だとその場を繕うくらいしか能力は持っていない。でも、と思う。ソーラーパネルが普及し出してどれくらい過ぎるだろう。個々の家庭が電力に関心を持ち出したのは最近のことだ。太陽光からもっと効率の良い電力が作られるようになりシステム化されれば、話は違ってくるかも。やっぱり何処までも夢物語なのだろうか。まぁ、いいっか。

5月3.4.5.6日
 息子の家で女房と落ち合い、一人旅は終わった。女房とのキャンカーの旅は、それはそれで楽しい。別な味わいがある。でも、しみじみとひたすら一般道を走り続けるなんてオタクっぽい旅は出来ない。往路で果たせなかった浜名湖湖畔での車中泊を敢行し、ちょっと気が向いて犬山城なんて城にも寄ってみた。何のディフェンスもされていない天守閣には少々びびったが、ここから見た木曽川は絶景という表現にぴったしだった。そして、去年世話になっている伊吹山の麓のグリーンパーク山東で、この旅で初めてカマドを開いてバーべキュー♪。旨い肉に胃袋を満たした。これはこれで珠玉のいい旅だ。文句を言ったら罰が当たる。こうしてそれなりに高速のお世話にもなって、9泊10日、3166`の旅を終えた。
 日本は、どっかの首相の誰かさんが言っているように美しい国だ。「本当に美しい!」と、よく整備された道路を走らせて頂きながら何度も何度も味わった。富士山は掛け値なしに美しい。白河城もなかなか風情がある。猪苗代湖、寒いけど格好いい、しびれる!。そんな美しさは確かにいいけれど、普通に走る道路の美しさ。治水の行き届いた川の、何気なく掛かっている橋の風情。長い間地域に豊かさを供給されて来たトンネルの存在感。新緑の木々、満たされ始めた水田の水のしみじみとした気配。大都会の東京・大阪だっていける。そして何でもないコンビニのありがたさ(ここはちょっと笑ってくれると嬉しいな)。全てが美しい。
 でも、この美しい国を壊そうとしているのは本当は誰だ。帰って新聞を読んでも、景気の良さそうな話が並ぶ。「違う違う。」もう過剰な宣伝文句はいらない。いつか南海トラフが動いて、オレは悔いるかもしれない。保険に入っておけばよかったって。(これってギャクのつもり)。でも、播かれた伊方原発の放射能は、また月額8万円の悲劇を生む。オレは要らないけど、息子は喜ぶ?あほか!!
 



七折梅祭り

2013.3.4

松山に住んで25年、
いつも遊ばせてもらっているたわむれ果樹園がある隣町・砥部町は
陶磁器の砥部焼きで有名な町です。

 果樹園で剪定や枯れ枝の処理をしてへとへとに疲れた後、
近くにある町営の温泉・湯砥里館で汗を流すのも
楽しい日課のひとつになっています。

 この湯砥里館に行く途中に、
「七折梅祭り2km」という看板が立っています。
何年も気にしていた看板で、
期待外れでもいいから一度は行ってみたいものだと思っていました。
果樹園帰りでは、草臥れていてなかなかその気にはなりません。

 昨日はすっきりと晴れた日曜日、
今年の梅祭りは3月10日までと書かれていたことも思い出して、
これ以上後ろには出来ないと覚悟を決めてカメラを持って出掛けました。

 通い慣れた国道からその看板を右折すると
よく整備された古民家風の農家が豊かな田舎の景色を彩り始めます。
「松山にもこんな美しいところがあったのか。」と眺めているとすぐに、
辺りは小さなピンクや白の梅の花で覆われてきます。
すると突然、路上に駐車している夥しい車が目に飛び込んできます。
これが七折の梅祭りかと、まずはびっくりです。

 私の貧相な予想では、精々駐車スペースは20台もあればいいかも。
梅の木が100本もあればしめたもの、というものでした。

 路上に溢れ出た車を横目に駐車場に入ってゆくと行けども行けども車だらけ。
200台や300台ではありません。
小さな入り口から入っていった山は
東京ドーム数個分が全部梅ノ木で覆われている程の規模でした。

 紅梅・白梅・濃いピンク・薄いピンク、
それに蝋梅の鮮やかな黄色と咲きかけた菜の花たち。
遠くに眺める四国連山と青い空が大きなパノラマを展開しています。
途中で見つけた『青軸』と命名された緑色の蕾から
咲き出している緑色掛かった白梅には、
ただ黙って目を奪われてしまいました。

 梅ノ木は桜ほどに華やかではなく、
一つひとつの花びらが小さくてもの足りなく感じます。
しかし、それがひとつの山全部が梅ノ木に覆われているとなると話は違ってきます。
散策路をぽっくりぽっくり歩きながら眺める梅には
一つひとつに儚い美しさが漂っていたり、
清楚な気品を感じさせたりします。
山の木々のグリーンを基調に、
赤白に黄色の色彩感豊かな景色は飽きさせない迫力がありました。

 急な斜面を上り下りしたので、腰の方ががくがくしていますが、
急いで、ちょっといいものを見たという気持ちを言葉にしてみました。

 帰りに、夕日があまりに綺麗だったので、
かねて歩いてみたいと思っていた重信川の河川敷きに行って夕日と遊んで来ました。
 
楽しい一日になりました。(^o^)




ベランダ大改造


2012.12.19


 マンションに暮らして10数年です。南向きの小さなベランダが気に入って買いました。初めのうちはよくも分からず、バラや芍薬やクリスマスローズなんて難しいものにまで手を出してしまい、だんだん足が遠のいていました。

 そんな中で、球根モノのフリージアやアルストロメリア、安価で可愛いカラフルなビオラやポーチュラカなどが残りました。季節に二品くらいが良いかなって思っています。

 特にフリージアは、大き過ぎない小さ過ぎない球根から始まり、あの独特の爽やかな香りすっきりとした葉脈、何より可憐に咲く色とりどり花達に励まされて来ました。黄色が代表的ですが、華やかな赤も良いですし、清楚な白も大好きです。そして、あまり有名ではありませんが紫とピンクは実にそれぞれ味わいがあります。

 40鉢以上はあるフリージアが一斉に咲き出す4月は私のベランダの最大の賑わいを見せる時です。私は八重は苦手です。「フリージアは一重が美しいのだ。」と、勝手に悟っています。

 そんなベランダは、いつも季節の鉢物が同じ高さにがっちりと固定された棚に並べられ、平均的にどれにも日差しが当たる全くインパクトのないものでした。

「つまらん、ウーンつまらん。」

どこかで聞いた台詞ですが、ここ何年も頭の中でこの台詞がぐるぐる回っていたような気がします。鉢を少なくし、池をあしらえて、ベンチなんか置いて、純和風なんかどうだい!などと荒唐無稽なことを考えていたこともあります。ベランダに池が置けるかってことに気がつくまでに、然程、時間は掛かりませんでしたけれど。

 そんな頃でした。何気なくビデオに取ったNHKの趣味の園芸を眺めていたら、狭いベランダを広く見せる方法なんてやっていました。「どうせまた、何時ものパターンだろう。」と、大して期待もしていなかったのですが、講師のお姉さんがちょっと魅力的だったので、しばし手を止めて眺めてしまいました。

 空間を立体的に作る。

高さの違うボックスを重ね、直にコンクリート置くものから始めて、スノコに乗せるもの・低い花台を使うもの。だんだん高くして、最後はボックスを縦に使って高さを出し、究極はハンギングで葉を垂らすという仕掛けでした。

ふーん、立体的ねえ。面白いかもねえ。。

 この状態で、また季節がひとつ巡って秋も深まった頃、「つまらん、ウーンつまらん。」って声がまた頭の中で鳴りだすのです。そうか、ならばあれを遣ってみるか。塾で使っていた学習机と椅子を並べると立体感が出しやすいかもなあ・・。イメージが沸々と沸いてきました。真ん中の此処を一番低くし、両端までを徐々に高くしてゆく。おおお、いいぞ!!。よしやってみるか。

 始めてしまえば、あとはゴソゴソやるだけ。あちこちに隠してあったガーデニンググッズを引っ張り出してイメージを形にして行きます。何年もの間固定していた棚も外しました。日曜日の晩飯のあと、朝起きての朝飯前、思いついたら即動き出します。寒いので上も下も靴下も真冬並の装備で突貫工事が続きました。

 完成です。おびただしい数の鉢物がこれまでとは違う顔で並びました。テレビで見たよりずっと格好いいと、得意の我田引水・自画自賛。貧相な電飾もちょっとだけ高価そうに見えるようになりました。

 これからは、折りに触れての仕立て直しも簡単に出来そうです。4月のフリージアの開花が待ち遠しく感じます。



初めてのキャンピングカーの旅

2012.10.11

 
9月中旬に、長年の夢だったキャンピングカーを買いました。日常の生活でも使えるバンをキャンカーに設(しつら)えた、ハイエースと同じ型のレジアスエースという、3000ccのデーゼルダーボです。それから半月、早くキャンカーの旅に出てみたいと思っていましたが、今回、まとまった休みが取れたので思い切って試してみる事にしました。
 長い間、乗用車でのキャンプやキャンプ場でのテント生活は経験して来ていましたが、キャンピングカーでの旅は全くの初体験。「キャンピングカー」や「カーネル」なんて雑誌を読んだりしてそれなりに勉強はしていましたが、正直言って期待よりは不安がいっぱいでした。
「念願のキャンカーは買ったはいいけれど、これでやっぱりキャンピングカーの旅はつまらない、なんて事になったらどうしよう。」
 今回は、近場で最近はあまり足の向いていなかった四国の中で、もう一度行ってみたかった高知を選びました。高知は何度か行っているのですが、キャンカーの生活を試すには丁度良いかなと思って3泊4日の旅の相手をしてもらうことにしました。

 5日

 昼過ぎまで用事があったので3時過ぎに松山を出ました。こんな時間に出発が出来るのもキャンカーです。高速は使わないと決めていたので久し振りに三坂峠から国道を上がって行きました。いつの間に完成したのか「三坂道路」なんて新しい道にも遭遇して、上々の滑り出しでした。四国山地は明るいうちに越えたいという思いで、紅葉にはまだ早かったけれど美しい山並みを見ながらのレジアスは最高でした。
 ところが、暗くなって高知市が目前になり事態は悪化。夕方のラッシュに遭遇してか車はビクとも動かなくなってしまいました。今日の最初の目的地は「夢の温泉」。高知を越えて向こう側だったので、「おし、ここは高速のお世話になろう。」都市部を越える時、渋滞の危険がある時は高速が効果的だと、今までの経験で知っていたので、あっりさりと予定を変えて南国ICまで350円でお世話になりました。いい決断だったと思います。
 それでも、夢の温泉に着いたのは7時半、もうとっぷりと日が暮れて辺りは真っ暗でした。
「ここの何がいいの。」と、女房。
「鄙びた田舎の温泉の風情がいいんだよ。」
とは言ってはみたものの、一人750円を払って入った温泉は、外は真っ暗、他のお客はゼロ。到底納得の出来る内容ではありませんでした。
 そこから10分、予定通りに到着したのは、キャンカー初の宿になる道の駅「美良布」。そこそこ田舎で静かに眠れそうかと期待して選んだのですが、道の駅は完全封鎖、道路に面した駐車スペースだけが開放されていました。
「ここで寝ろっちゅんかい。こりゃ車の音がうるさいぞ。」
覚悟を決めかねていたら、ちょこっと横の方に町営の無料の駐車場があったので、こっちの方にお世話になる事に決めて一件落着。道路から10mくらい奥まっていたので、脇を走る車の音は殆ど気になりませんでした。
 初めての車中泊。ビールを開けようとすると栓抜きが何処にあるか分からない、荷物をひっくり返して大騒ぎ。ソファーをフラットにするにもどこのレバーを押すのか引くのかも分からずもう汗だく。カーテンをしてみたものの外から覗かれるのではないかとの不安などなど、突然の事件が続出。それでもひとつひとつ臨機応変に解決をして全件落着。定量のビールでスコンと安眠いたしました。

 6日

 早朝、6時前。周囲が騒がしくて目が覚めました。小学生くらいの子どもやお母さんが30人もいたでしょうか。少々びびりました。 ラジオ体操?なんて思いましたが、そんな季節でもなく、どうやら何かの行事の集合場所として使われていたようです。
 辺りが静まり返ってから、カーテンを開け、いつものカメラワークの時間です。すぐ裏にアンパンマンで有名なやなせたかしさんの施設があるのでこいつと格闘しようと決めていました。こんな施設を写す経験はないので悪戦苦闘でしたが、楽しく写せました。
 寝具を整理するのも初めてのこと。どこに何を置いたらよいか分からず四苦八苦です。こりゃ経験が必要です。さて、セルを回していざ出発、簡単です。昨日の「夢の温泉」の前を通るので、もう一度景色を確かめたくて立ち寄ってみました。
 案の定です。絶景でした。
 物部川に掛かる神社の赤い鳥居が朝日に輝いてきらきらと光っておりました。
「ここは、明るいうちに来なければならない場所だね。」
と、結論が出たのでした。
 朝食はネットの地図ではすぐ近く、香南町のイングリッシュ・ガーデンハウスと予定していました。時間が早いので、予定にはない龍河洞の入り口くらいは眺めて行こうかと考えたのが間違い。龍河洞は小高い山の山裾にあり、イングリッシュ・ガーデンハウスは山向こうにあります。少しの回り道で済むものを、つい調子に乗って必要のない山越えをすることになってしまいました。(朝から反省)
 それでも、9時前には美しい薔薇の咲き誇るイングリッシュ・ガーデンハウスに到着する筈だったのですが、着いてみると、すでに薔薇園は荒れ、蜘蛛の巣が待ち受ける廃業状態でした。ネットの情報ってのは本当に当てになりませんねえ。。
 気を取り直して、高知に向かいました。高知はモーニングサービスで有名なところ、きっといいところがあるに違いないと車を走らせていると、それらしい喫茶店が出現、迷わずレジ君を止めて、朝食にあり付きました。(満足)
 やっと、腹を納得させる事が出来て、いよいよ本日のメインイベント、牧野植物園と竹林寺です。30分も走ると目的地が見えて来ます。やはり、日程に余裕を持っていたことを再確認しました。無茶はいけません。
 市内の小高い岡の上に牧野富太郎植物園があります。随分前に、阪本龍馬の追っかけをしていた頃に牧野さんの御功績は聞いていましたが、今回は、友人から大きな植物園があることを聞いて楽しみにしていました。それにしても、大きいのです。2時間歩いても全部を見ることは出来ませんでした。どれ位あるのでしょうねえ。野球場で5つや6つにはなりそうです。そして又、これがよく整備されているのです。聞いた事のない名前のたくさんの花たちに名札を下げ、洒落た道を備え、近代的な建物を配置し、馬鹿でかい温室もありました。丁度,睡蓮と彼岸花の季節で、美しい珍しい花たちを堪能させて貰いました。何せ、時間に制限がないので一日中でもいられるという感覚は贅沢そのものですねえ。
 途中で、隣接している竹林寺にもお邪魔できました。立派な植物園から立派な真言宗のお寺へのワープはなかなか刺激的です。お寺を歩いている時には感じませんでしたが、植物園に戻った瞬間、頭の上に重く圧(の)し掛かっていた圧迫から開放されたような気がしました。不思議な感覚でした。
 それでも3時頃には植物園を出ました。女房は高知文学館に行きたいと言うので、ヤツだけを置いて、私だけで市内めぐり。とは言っても、適当な温泉はないかを探し、持ってくるのを忘れて苦戦していたチャッカマンを107円で買っておしまい。
 昨日は暗くなって失敗したので早くから風呂探し。旅に出ると、風呂・温泉は大切な楽しみになるんです。2人で1000円も毎日となるとちょっと躊躇する時もあるのですが、実際、夕方になると一日の疲れも加わって、お風呂が恋しくなってしまいます。今日は、ちょっと町外れの一昔前に栄えた風呂付旅館兼食堂みたいな場所になってしまいました。駐車場が広く隅っこの方で一晩過ごしても良さそうなので決めたのですが、風呂から上がってきた時には、
「やっぱり迷惑かな、酔っ払ってから小言を言われても嫌だし。」
と思って止めました。この辺がまだ未熟なところでしょう。
 結局、予定通り牧野植物園の駐車場のお世話になりましたが、真っ暗の山道は、短くても不安、途中で鎖でも掛かっていたら辛いなあと思って登る山道はもっと不安でした。この辺もまだまだ経験不足です。どうやら何事もなく牧野植物園の駐車場に行くと同胞の輩が一台いてとても心強く感じました。

 この日の夕食は、前日と同じスーパーの3割引の食材。ゴミが少なくて重宝するのですが、胃にもたれるのも確か。2日くらいが限界でしょうか。ビールを飲んで飯を食べるともう何にもする事がありません。まだ7時です。本を読むには暗いし、PCもテレビも今回は間に合いませんでした。やはり、それなりの準備は必要だと痛感しました。

 7日

 外がうす明るくなって来たところで起床。持って来た食材で朝食。やっぱりこの方が落ち着きます。外食・店屋物だけでは長い旅はできないと分かりました。ゆっくりと車内の整理整頓。これも時間に余裕があり、他にすることがないので楽しんでする事が出来ました。
 おもむろに車を動かして8時。今日の予定は日曜市からです。近くの有料駐車場に車を置いて、300mはあるという日曜市を隅から隅まで眺めて来ました。坊さんが念仏を唱え、土佐弁が飛び交う活気ある風情はなかなかのものがありました。200円の梨を190円で一個買いましたが、値切って買うのは楽しいことです。
 日本3大がっかり名所として名高いはりまや橋にも、近かったので歩いて行きました。ここは2回目だったので、それほどがっかりもせず、
「こんなちっぽけな施設でも有名になれば人は集まるのだ」
と、勉強させて頂きました。
 これで高知の予定は全て完了です。11時です。いよいよ四万十へ向けてハンドルを持ちました。須崎を越えてどんどん田舎に入って行きます。中土佐という標識が見えます。ナビ助は、この先内陸に入って行くと言っています。
「久し振りに太平洋の海が見たいなあ。これが最後のチャンスだ。」
こう思うと、突然行動を変えられるのがキャンカーの醍醐味です。目の前の交差点をナビの指示を無視して左折。すぐ先には太平洋がある筈です。忽然と現れた大海原を眺め、しばし海岸線を走ると、いかにも我らを待っていたかのような磯が姿を現します。「おし、決めた。」と、レジ君を走らせます。見えてから到着まで5分くらいはあったでしょうか。素敵な磯に着きました。後から調べて、大野岬という地名を知りました。釣り人が数人、家族連れが2組、結構にぎやかな時間になりました。大きく波を揺らす太平洋は、やはりいつもの瀬戸内海とは違う雄大さを感じます。300ミリも広角も大活躍で、たくさん写真を撮りました。
 
さあ、四国山地に分け入ります。四万十川です。日本に残っている数少ない自然のままの大河といっても差し支えはないでしょう。本流と支流が入り乱れ大きく曲がりくねった幅の広い川は迫力十分です。まずは今日の宿泊地、四万十川の川沿いに作られたリバーサイド轟キャンプ場にあっさりと到着。3時にもなっていません。もうオフシーズンなのか管理人はおらず、使い放題。広い敷地内には若い家族連れのテントが2つくらい見えて、長閑なものです。
「おし、これなら最高のキャンプが楽しめるぞ。」
下見を終えて、楽しみにしていた一の又渓谷温泉へ。ネットの案内ではここから6分とあったのですが、ナビ助が15分と言います。もう、すっかり信頼しきっているナビの言うがままに車を走らせると同じ山道をひと回りしてしまいました。
「へえ、こいつでも間違うのかな。」
って今でも不思議に思っています。
 一の又渓谷温泉です。ネット情報では、もう宿泊には適さない。風呂はかなり良いと書かれていました。ちょっと心配はしていました。深い山道をそろりと上がってゆくと真新しいトンネルに出くわし、左に「一の又渓谷温泉にお越しの方は、トンネルを越えると駐車場があります。」との看板がありました。「やばくないか?」殺気を感じますねえ。山奥に真新しいトンネルはいかにも不釣り合い。加えて鄙びた温泉にはもっと不釣り合いで興趣を裂きます。。トンネルを出てすぐに駐車場。そこから山道を下って、ガケを下っての一の又渓谷温泉。確かに、渓谷に面した風呂場は味わいがあったけれどもお湯はぬるく、全体の汚い雰囲気が拭い難くアウトです。山に分け入ってゆっくりとたっぷりとした温かいお湯に浸るという夢自体に無理があったのだろうかと思わざるを得ない結末となりました。
 それでも、リバーサイド轟キャンプ場に戻れば世界は一変です。ディレクターズチェアー2つとテーブルを出せば全てが終わり、愛用のギターを引っ張り出して缶ビールを片手に好きな歌を心ゆくまで歌います。うす暗くなり始めたら、この旅の為にたった一つだけ新調したバーベキュー用のカマドを出して晩飯の準備です。ランタンの明かりだけで持って来た自作のナスや獅子唐を焼き、ウインナーや牛肉で舌づつみを打ちました。最高の時間です。
 夕闇迫る中、突然、頭の上の鉄橋をローカル列車が走り抜けました。感動の一瞬でした。暗くなり切ったら、片づけもせず、レジアスに乗り込めば一件落着。これも美味しい瞬間ですね。心地よくソファベットに潜り込めば一日が終わりです。

 8日

 寝ぼけ眼で見た夜中の満天の星空は夢の続きだったかしら、と思いながら差し込む朝日で目が覚めました。しゃかしゃかっと昨日の残骸を整理して昨日決めていた四万十の川原に引越しです。しばし清流の中で水遊びをしてから川を眺めての朝飯。いい時間でした。女房の作る焼きソバが、どんな豪華なホテルの朝飯より豪華で美味しく感じました。

「こりゃやれるぞ。」
旅が終わりに近づいて、四万十の風景を眺めながら、これからのキャンカーの旅に思いを馳せていました。

 キャンカーの旅は、これまでの旅の概念とはいろいろな面で違っています。出発はいつでもいい、どこに何時間いてもいい、到着時間は何時でもいいというような時間の使い方、行きたい所を瞬時に変えても予定に大きく影響しない、ホテルの予約、気遣いが皆無などという話は、これまでの知識で知っていたことです。
 しかし、初めてのキャンピンクカーでの旅の経験で感じたことはそれだけでは足りないように思います。何より自由だということ。全部自分で決められるということ。自然が好きな私には一番大切なことですが、朝一番の太陽の光の中に、夕方暮れてゆく光の中に美しい風景が惜しげもなく広がっているということ。
 同時に、どう楽しくするかは準備と経験が必要なことも痛感しました。気儘な目的を持たない旅が楽しくならないとは感じていましたが、キャンカーの旅こそしっかりとした目的を必要とするように思います。そして、夜、暗くなってからの移動はいい事が少ない。キャンパーとしてのマナーは、車のおき場所、ゴミの処理の仕方など、テントキャンプとは比較にならないほど種々たくさんありそうです。私はまだまだです。そして、起こるハプニングの多さも予想を大きく超えました。一番必要だったのはテーブル拭きと雑巾だなんてのは、経験のある人には当然の話でしょうが、今回の私の最大の笑い話のひとつです。歳を取って来て硬くなって来た頭には、最高の刺激的な日々が待っていると言っても過言ではないでしょう。



2012年 GW

2012.5.10
 「ゴールデン・ウイークが近いね。今年はどうしようか。」
 「孫の顔が見たいなあ。東京行くか?」
 
 最近、飛行機2時間で東京に行くことに慣れてしまっている私たちは、本当の東京までの距離を忘れてしまっているようだ。実に気楽に、東京の孫に会いたいのでという軽い気持ちで出掛ける事にした、それも車で。
 1903キロ。
 4泊5日で愛車サニーが走破した距離なのだ。一日平均400キロ。全くこんなアホなことがヨーできるものだと我ながら感心する。安普請のサニーが、よくぞ壊れずに走り抜いたものだと感謝でいっぱいだ。

 5月1日
 早朝、かねて滞りなく準備していたキャンプグッズを満載して、いざ出発。
今回の旅は、
「ナビを付けなければ絶対に行かない、乗らない。」
と強く主張する女房に負けて、初めて、ナビ助を旅の友とした。
「そんなもの必要ない。オレの腕を信用しないのか。」
と言いたかったが、これまでの旅で少々自信がなくなっていたオレはしぶしぶナビ助を備えたのだった。
 早朝の高速松山道は曇り空ながら、車も少なく予定通りの爽快な走りを始めた。10時過ぎには、最初の休憩地、淡路島・パルシエ香りの館に到着。インターからの複雑な道のりもナビ助がしっかりサポートしてくれる。
「うーん、こいつはなかなかやるなあ。」
悔しいが、ナビ助の実力の片鱗を見せつけられた瞬間だった。
 香りの館と名前のあるように館内は実に様々な香水のような匂いが充満していた。ただ単に走行距離から計算して、ネットで適当に見つけた休憩地として紛れ込んで行ったのに、一気に現実から乖離して大きな旅の始まりを予感させてくれる序章としての役割を担ってくれた。
 明石海峡大橋サービスエリアは、いつもバスツアーでトイレ休憩をする場所。
「ハアイ、ここで15分の休憩を取ります。必ず、トイレはおすまし下さい。」
などと添乗員に言われながら、そそくさと通ったトイレも今日はのんびり、ゆっくり。空模様がいまいちで、シャキっとしたいい写真が撮れなくて残念だったが、それでも初めて好きなだけたっぷり時間を使って海峡を眺めた。

 初日の宿泊地は、伊吹山山麓のグリーンパーク山東なる所でテントを張ることにしていた。夏のキャンプは何度も経験しているが、ゴールデンウイークのキャンプは初めての経験だ。果たしてどんなものか,寒くはないのか、蚊や虫はどの程度かなどと少々心配していたが、何のことはない、夏の暑い盛りのキャンプより爽快で、寒さはちょっとしたものを上に羽織るくらいで充分だ。簡易カマドの炭の火が心地よく暖かい。

 グリーンパーク山東はネットで安直に見つけたキャンプ場で、正直、あまり期待はしていなかった。出来れば琵琶湖湖畔のキャンプ場を、と思っていくつか探したのだがうまく見つけられずに此処に決めたのだった。しかし、廉価で泊まれる
グリーンパーク山東は、よく手入れされた芝生の美しいキャンプサイトで、目の前の伊吹山がどっしりと男性的な存在感を示していた。
「此処はなかなかの掘り出し物だぞ、これからのキャンピング人生に大いに利用させて貰えそうだ。」と、ちゃっかり喜んでいる。受付のおっさんの対応が抜群に良かったのも忘れちゃあいけない。
 地元のスーパーで食材を買い込んで、いざ焼肉バーべキューと勇んでみたものの、この日は風が強く、簡易カマドはなかなか火力が強くなってくれない。仕方なくポータブルガスコンロで夕食なんて情けない出来事も書いておこう。夜中、風の音がうるさくて何度も起こされ、数匹入っていた蚊に悩まされて過ごしたテントの暮らしは決して快適ではないが、実に楽しい時間だったことを忘れたくはない。あの暮れて光を失ってゆくキャンプサイトの景色は他のどんな名勝の景色よりも美しいと思う。


 
5月2日
 風でテントが飛ばされるのではないかとびくびくしながら目を覚ますと、外は薄明るくなっている。まだ5時にもなっていない。風は強いが雨は降っていないようだ。
「よし、起きてしまえ。」
 車に戻って、今日の確認やナビ助の設定をする。車の中は風の音がなくて気持ちがいい。少し寝ようかとも思ったが、どうやら雨も近い。この際
グリーンパーク山東敷地内の散歩をしておきたいものだと奮起して、傘一本持って出掛けた。
 奥の方に小振りな池があった、上手に整備されていて本来の自然の状態を保っているように感じさせてくれる。都会の、すっかり人の手で歪められた自然を見ていると、こうした自然に出合うのが本当に嬉しい。マガモの親子がオレの存在なんて無視して伸び伸びと泳いでやがる。いいもんだ。
 風で傘がひっくり返り、骨が2本ぐにゃりと曲がった。「ああ、こいつもこれでお仕舞いだ。」と思ったが、そのままの状態でこの後の旅の重要な役割を担ってくれた。キャンプグッヅをそそくさと片付け、車を動かすと同時に大きな雨粒が空から落ちてきた。危機一髪なんて思ったけれど、これから3日間この雨との付き合いになるなんて、この時は予想もしていなかった。
 名神高速に乗り、目指すは浜名湖のガーデンパーク。数年前に花博をした場所で、2日目の休憩地として予定していた。しかし、雨脚が強くなるばかりで、どうやらガーデンパークに寄っても歩くことすら儘ならない感じだ。「さて・・」と思っていたら何処かSAの看板で数日前から新東名高速が開通しているとか書いていたのを思い出した。
「これはチャンス。新しい高速に乗れるなんてそんな機会はそうあるもんじゃない。」
浜名湖で降りる予定が急遽変更になり、直前のミカビとやらで新東名に乗った。

「やったあ、何もかもが新しいぞ!!」

 
キョロキョロと辺りを見回しながら喜んでいたのもつかの間、ナビ助が全くおかしなことを言い出した。どうもこの高速の情報がインプットされていないらしい。道なき道を進み、突然、「次の交差点を右折して下さい。」なんてノタマう。別に高速の上なんだから、ナビ助が狂っても、さして不安はないと思ってはみたものの、考えてみたら今日の目的地、山中湖に行くには何処で降りたらいいのか、時間はどれくらい掛かるのか、分からないことが続々と出てくる。もうすっかりナビ助を頼りにしている自分に気が付いて苦笑してしまった。仕方なくSAに転がり込んで、案内所のお兄さんに尋ねた。
「山中湖に行くには、何処で降りたらいいのでしょうね、ナビが作動しないのですよ。」
お兄さんは、我が意を得たりとでも言うように得意そうに、古めかしい日本地図を指差しながら、御殿場の出口を教えてくれた。
ヤマハのピアノの鍵盤をもじったSAをしっかり記憶しておこう。
 ナビが動かなくなると次々と襲ってきた不安やイライラは、御殿場で一般道に降りると一挙に解決した。全く、これまでナビ助なしでやって来た旅がどれほど不安定なものだったかを図らずも知れる事となった。しかし、雨はますます激しさを増してくる、一体、キャンプは可能なのか。

 山中湖、みさきキャンプ場に到着。ネットでは設営サイトが確保できるかどうかも定かではなかったのに、何と,広いサイトにテントはひとつもない。いつ止むか分からない強い雨に湖畔でのキャンプは泣く泣くギブアップ。山中湖に映る富士山を眺めて美味い肉を食い、写真を写す予定はこれですっかり夢の世界に舞い戻ることとなった。
 仕方なく、近くのバンガローかコテージでもと思って探し始めたが、これがなかなかはかどらない。また、だんだんイライラがつのって来た。ああ、情けない。
 すると、女房が突然張り切りだし、何処かに観光案内所があるはず、そこで民宿でも探そう、と言い出した。もう、何にも考える気力を失っていたオレは、言われるがままに車を横づけして、ボケーと成り行きを眺めていた。ヤツはさっさと民宿「さざなみ」を決め、電話で予約を確認して、一丁上がり。オレは全くの傍観者を演じてしまった。ああ、情けない。
 
 5月3日
 降り続いた雨はこの日も元気いっぱいだ。玄関先に置いてある車に荷物を取りに行くだけでグショグショになってしまう。ほんと、大変な日に旅に出てしまったものだ。今日は息子の住む川越まで行けばいい。ナビ助の情報では1時間半で着くという。ほんと、知らない道を教えてくれるだけでなく、目的地までのおおよその時間まで瞬時に教えてくれるのだから、ナビ助は頼りになる。
 息子には昼頃に着くと連絡をしていたので、時間には余裕があるし大雨で見に行く所もないので、高速道をやめて一般道を行くことにした。すると、ナビ助のヤツが急にあっち行けこっち行けとうるさく指示を出し始めた。そう、高速の乗り口を指示しているのは分かっていたが、すぐに諦めるだろうとバカにしていた。いや、きっと次の高速道の乗り口を指示してくれると期待していたというべきか。しかし、ナビ助が同じ乗り口にこだわるのを聞いていて、「なんだ、こいつもたいしたことないなあ。」なんて、まるで悪友と話す感覚で評価を加えている自分に驚いていた。しかしまあ、一般道優先の指示をしてやれば、すぐに機嫌を直して話し相手になってくれるんだから、処し易いヤツよ、ハハハ。

 ナビ助の言うとおりに一般道を進んでいると、なんとも風情のある古い道を走っている事に気づいた。どうやらこれが旧甲州街道と言われる道らしいと分かったのはしばらく走ってからのことだ。もっと時間にゆとりが出来たら、こんな道をのんびりゆっくり走りたいものだ、それがオレの目指すキャンピングカーの旅ではないかと、この
旧甲州街道は教えてくれているように感じる。

 息子の家に着いた。2歳10ヵ月になる孫が飛び込んでくる。正月以来だから5ヶ月ぶりだ。よくぞジイジのことを忘れないでいてくれたのもだと、まず感動。10ヶ月のなる下の孫はハイハイも寝返りもしないのに、もう立って歩こうとする気配を見せる。今どきの赤ん坊はそういう成長の仕方をするのかねえ。まだ、人見知りをするところまでいかないので、しっかりジイジの腕の中にいつまでもいてくれる。素晴らしい存在感だ。「そう、この感覚が欲しくて950キロを走って来たのだ。」としみじみした。
 川越は小江戸の別名を持つ古い町並みがあると、テレビの情報で聞いていた。折角だからちょっくら見てみたいものだと、重い腰を上げて、上の孫と行ってみた。黒い壁の蔵が建つ通りは、かなり観光地化されていたが、確かに江戸時代の古の気配を漂わせていた。戦災で近代化してしまった都市よりもこういう趣きのある町がいいと思う。
 通りで、孫がオレを見失って、今にも泣き出しそうな不安そうな顔をしていた。そおっとそれを見ながら思った。
「オレを見つけたときどんな顔になるのかなあ。」

正直言って、期待より不安の方が大きかった。たくさんいる観光客の中からオレが分かるのだろうか、オレが認識で来るのだろうか。答えは瞬時に出た。
「あっ、ジイジィだ。」
はち切れんばかりの笑顔と絶対の信頼感を感じる表情。もう、全てを幸福に導いてくれる瞬間だったと言って差し支えないだろう。
 息子に、ナビ助の効用を説いたが、
「そんなこと、オレは10年前から知ってるよ。」と、鼻であしらわれたことだけ、ちょっと書いておこう。

 
5月4日
 雨はまだ降っている。全くたいしたものだと妙に感心する。さあ、帰るぞと自分に言い聞かせて、サニーのエンジンを掛ける。気分は爽快だ。孫が自分も乗ると言って泣きそうにしている。こういう時間は切ないもんだ。
 また、ナビ助が元気に活躍を始める。もう全幅の信頼を寄せているから何にも不安は起きない。調子こいて、ホイホイと高速に乗ったらガソリン入れるのを忘れてた。車はガソリンで走るのよね。どこかのSAで入れられたらいいけど、そこまで持つかどうかは分からない。すぐ降りるのも癪だけど、ガソリンメーターはゼロに近い。早速、朝からピンチの始まりだ。
 結局、ナビ助の頼んで最寄りのスタンドを教えてもらい、はいはいって素直にそこまで連れて行ってもらうという体たらくで一件落着。ああ、情けない。

 今日の宿は岐阜は大垣市。東名を戻るのかと思っていたが、ナビ助は中央道の方が20キロ短いと言って譲らない。しょうがないのでナビ助の言うとおりに従うことにした。信州はオレの大好きな地域。南アルプスと中央アルプスの間を通ることになるらしい。それなら行きたい所もあったのにと後悔するが、今更、計画を練り直すことも出来ない。サニーは何の文句も言わずスイスイと走る。
 正面に美しい、切り立った山並みが見えて来た。どうやら、八ヶ岳らしい。バスツアーでは何度か拝ませて頂いているが、自分のハンドルで見るのは初めて。素晴らしい輝きを見せてくれる。富士山は最後までその姿を見せてはくれなかったので、八ヶ岳のゴツゴツした山肌が美しい。
 川越からこっち、何処のSAも車でいっぱい。すっかり疲れていたオレはボケーっとしながら八ヶ岳サービスエリアに侵入していった。駐車場はどこもいっぱいで前に進めず待ちの体制だった。別の道に行こうとしたオレは、何故か後ろもよく見ずにソロソロとバックした。
 ビビビビーー!!
 大きなクラクションが響いた。
 後ろの車と何センチ開いていただろうか。危なかった。
 
 そのまま
八ヶ岳サービスエリアで1時間爆睡。目が覚めたら直前のあわや大惨事もすっかり忘れて、久々に顔を見せた暖かい太陽さんの下、美しい山並みに見とれて疲れを癒した。
 
  
ナビ助が一生懸命に働いてくれて、車は大垣市へ。今日の宿はきみ松旅館。これが今回の旅の最後の宿。4日の宿泊はどこも満席で空き部屋がなかった。諦めて、グリーンパーク山東でもう一度テントを張る覚悟をしていた。出発の直前に最後の試みと思って楽天に訊いてみたら、このきみ松旅館が出て来た。素泊まり3.500円。築60年。
 まあ、どんなものか。ある程度の覚悟はしていたが、旅館の目の前に駐車した時に、我が目を疑ったことは事実だ。古い、汚い、小さい。そんなことは些細なこと。傾いて壊れそうな母屋に訳の分からない臭いがたち込め、そこら一面に置いてあるガラクタが景観を損ね、カーテンは寸法違いの色違い。極めつきは、おそらく何回か使っているを思われる敷きっ放しの布団類が雑然と並んでいる部屋。
 アアァァ・・
 グリーンパーク山東の方が余程いいが、今更車を進める気力も残っていない。覚悟を決めて、ここで一泊することとした。旅には是と非はつきものなのだ。

 5月5日
 眠ってしまえば、こんな宿でも疲れは取れる。本当にありがたい。しっかり爆睡して起きた瞬間、何も考えずに旅の身支度を整えて出発進行。OK。

 天気は、これまでのグズグズがまるで嘘だったようなピーカンの真っ青な空。実に爽やかだ。旅は、やっぱりこうでなくちゃ。後は、ホ−ムグラウンドに帰るだけと思ったら、このままで帰るのが惜しい気持ちになって来た。しばらく一般道も走りたいという事で、途中にある彦根城にでも寄って帰ろうかと、また予定にない行動が決まった。ナビ助にお願いして彦根城へ向かって行くと、「関が原」の標識に目に飛び込んで来た。昔、一度は来ているのだけれど、是非もう一度、関が原の戦いがあった古戦場は見てみたい。またまた予定が追加になって、ナビ助にお願いを申し立てたら、ヤツは機嫌が悪いのか、そんなとこ知らないと、にべもない。

「ほんと、付き合い難いやっちゃ、ふん、それくらい自力で行けるっちゃ。」
 しかし、そうなるとどこをどう行ったらいいか見当もつかない。JR関ヶ原駅に行って地図を見ても埒があかない。辛うじて決戦地跡なるところ見つけて、その近くの朽ちた寺に迷い込んで、これで納得したつもりになって、国道に戻った。
 そうしたら、3分も走らないうちに、「石田光成陣跡」という標識が飛び込んできた。
「ああ、これこれ。これだよ。」
それなりに戦い当時の様子を残した風景は、400年前に思いを馳せるには充分な役割を持っていた。
「そうそう、これが見たかったんだよ。それじゃあ、さっきのは何。」
「まあ、深いことは考えないでおこう。。」

 こうして、大満足で関が原を後にした。ナビ助には、お願いだから拗ねないで行き先くらいは教えてねって平身低頭したことは、言うまでもない。ちょっと迷うとたくさんの時間をロスしてしまう。ああ、勿体ない。
 車を進めて行くと、また、美しい洒落た道を走っている事に気づいた。どうやら旧中山道を走っているようだ。水路が走り古い町並みがよく整備されて、豊かな生活が営まれている雰囲気が見ているだけで伝わってくる。
 標識に「醒井」の文字を見て納得した。出発する前に、下調べのために本屋で一冊だけ買った「歩いて楽しむ 近江琵琶湖」の中で、街道歩きと郷愁を味わおうと銘打ってこの醒井が紹介されていた。「本に取り上げられるということは、こういう事か。」と本物を見て納得した。今回はホンの触りだけの訪問になってしまったが、改めてじっくりと拝見させて頂きたいと、深く心に刻んで、その場を後にした。

 彦根城が近づいて来る。ここでもナビ助は有能な能力を発揮して、的確に最適な駐車場に誘導してくれる。こんな広い所で、もし自分で駐車する所を探すとなると、それだけでどれ程の疲れを背負い込むか。ちょっと予想しただけで、これまでの自分の旅を深く憂う気になってしまう。
 まま、それはそれとして、まだ朝早い駐車場は続々と押し寄せる車で少々待たされたが、慣れた手際よい誘導で実に気持ちよく車が収まった。
 地図から想像するに天守閣からは素晴らしい琵琶湖が堪能できるに違いないと、期待に夢を膨らませて古い石段を登り出すと、まもなく「ただいま60分待ち」の看板を持ったおっさんに出会った。60分?!ちょっくら迷ったが、即座にその最後尾に並ぶ事を決めた。というのも、数年前のGW、USJに出掛けて、足の踏み場もないほどの人の中、何一つアトラクションに乗ることもなく、ただただふらふらと周囲を眺めて歩き、後に後悔が残った苦い経験が頭を過ぎったからなのだ。

 60分が看板どおりではないだろうと、覚悟はしていたけれど、ぐるっと廻って出て来たら、なんと100分が費やされていた。でも、待っている間に、あの有名キャラクター・ヒコにゃんの写真を撮ったり石垣からの琵琶湖の写真を撮ったりと結構ゆっくり楽しめた。列の前後の仲間達とはちょっと不思議な連帯感さえ共有していたかもしれない。
 観光名所はよくガッカリ名所となるケースがあるが、この彦根城の天守閣もご他聞にもれずのガッカリ名所となった。期待していた琵琶湖の写真は、どこの窓も金網でふさがれすっきりと写せない。誘導員が、あっち気をつけろ、こっちに荷物を持てと小うるさい。

 
ま、でも、100分並んでガッカリ出来たから満足と自分に言い聞かせて、もう歩くのも面倒くさくなって来た足を引きずって、併設されている「玄宮園」なる施設に、何の期待もなしに、なんなら見なくてもいいのにと思いながら入場した。
  びっくりした。美しかった。兼六園だ栗林公園だと様々な日本庭園は拝見させて頂いているが、また一種独特な趣きのある庭園なのだ。よく整備はされているが自然の美しさを生かした池や木々は、よく晴れた青い空と似合っている。程よい高さにそびえる彦根城の天守閣は、決してガッカリ名所とは思えない存在感を見せつけてくれる。少し足を進めると「どうぞお気軽にお立ち寄りください。」のたて看板が目に入った。日頃は、この手のお誘いには一度も乗ったことはないのだけれど、この時ばかりは、「さぞ気持ちが良いのだろうなあ。」と想像し、ヨタヨタと転がり込むように座り込んだ。抹茶が見事だった。庭園を吹き抜ける風が柔らかかった。目に映る緑が心地よかった。

 ああ、いい旅になった。この時、心底そう思えた。4泊5日の乱暴な車での旅は、実はリタイヤ後のキャンピングカーでの全国ツアーの重要な試行の意味を持っていた。これでつまらなかったら、老後の計画はその根本から考え直さなければならなかったかも知れない。しかし、本当にいい旅だった。
 これでキャンピングカーならどんな旅になるだろう。予想するだけで、待ち遠しくなるくらいにワクワクする。もうひとつの趣味、デジカメもその迫力を存分に発揮して、たくさんの美しい写真を残してくれた。もう、感無量だ。こいつの編集には、またたくさんの時間と労力を必要とするのだが、これまた旅の味わいを再構築するような楽しみもある。
 さあ、今度はどこに行こうかな。

             今、ピアノを弾いています。 2012.3.12

 今、ピアノを弾いています。
 昔はそれなりに弾いていたのですが、すっかりピアノに興味が持てなくなり、
10年以上も放りっぱなしの状態でした。
今年に入って、
「このままこのピアノは葬られる運命なのかな。」
と何気なく思ってしまいました。
若い頃、女房が仕入れてきた思い入れのあるピアノだったのにと、
ずっと横目で見ているところは確かにあったのです。

 「どうせ、もう少ししたら本当に弾けなくなる歳だもの。
それなら、もう一回くらいこいつと付き合ってみるかな。」

べートーベンのテンペストの3楽章が譜面台に埃まみれになって載っていました。
何故か、蓋を閉めるとこまでは出来なかったのです。
「テンペストか、懐かしいなあ。」

たらららー。   ラレドシー・・。

 アウトです。全然弾けません。
弾けないだろうと、予想はしていました。
しかしこれほどに弾けないとは。それに所々鍵盤が上がりません。
「俺もガタが来たけれど、、こいつも相当だなあ」
勝手に、ピアノの所為にして諦めようと思いました。
でも、これが最後のつもりだしと思い直して、
珍しく丁寧にワンフレーズずつサラうことにしました。

 1週間ほど過ぎました。
全く動かなかった手が少しずつ動き出し、
ワンフレーズで3回突っかかっていた音楽がボチボチ動き始めました。
今日は、提示部を暗譜に近い状態まで弾くことが出来ました。
動きの悪かった鍵盤は、単に弱音ペダルが半分引っかかっていただけで、
よしよしって直してやったら、すっかり機嫌良くなってくれました。

 まだまだ、あっちで突っかかり、こっちでは変な音を出していますが、
本人はすっかり往年のピアニストになったつもりで、
どっぷりとベート-ベンの世界に漬かっています。

 また、すぐに嫌になるかもしれません。
でも、お袋さんが貧しい中で進ませてくれた音楽の道だったことを思い出し、
親孝行のつもりで、ちょっとだけ続けるつもりになっているところです。

 聞きたいなんて言わないでくださいね、
聞かせられるような音じゃあないんだから。

  お粗末。


正月にフリージアを 2010.1.15
 
 今の季節に鉢物を買いに行くとシクラメンやプリムラに混じって蕾を持った黄色いフリージアが売られている。「やっぱりその道のプロはこうして季節外れのフリージアを咲かせる技を持っているんだなあ。」といつも感心していた。
 最近は、私のベランダの殆どの鉢はフリージアになってしまい、昔頑張った薔薇やベコニア、観葉植物なんかはすっかり消えてしまっている。フリージアは何といっても香りがいい。あの他にたとえ様も無い仄かな香りはこの花を100倍美しく感じさせる。それに、このきりっと締まった大きくない花弁、チューリップほどに大きくない平行脈の葉、何より球根なので世話が楽チンなのだ。だから例年、10月くらいに鉢に球根を入れ、4月に咲かせることを楽しみにしてひと冬の間せっせと水遣りをする。そして、4月のベランダに満開に咲くフリージアを眺めるのが欠かせないライフワークになっていた。
 2年ほど前になるだろうか、何冊かあるガーデニングの本をぼんやり眺めていて、ふと、「正月にフリージアを咲かそう」というタイトルに目が留まった。何度も見ている本だが、それまで一度も意識をしたことはなかった。
 「ん?、これってもしかして、あの寒い頃によく売られているフリージアの育て方なのかもしれない?」
 半信半疑で読んでみるとそれ程難しい作業もなく、大きな施設も必要としない様なので、「面白そうだなあ。」と脳みそにインプットされていれた。
 去年の5月、ベランダの咲き終わったフリージアたちの球根を片つけていると、「そういえば、正月にフリージアを咲かそう」なんて話があったよなと思い出した。改めて例の本を開いてみると最初の作業は7月のリンゴ処理。何でもリンゴと一緒に3っ日間ほど袋に入れて置くだけのこととか。「おっしゃ、忘れちゃいかんから、この本は開きっぱなしにしておこう。」ということになり、それから半年間もの間、そいつは本箱の棚に吊るされる事となった。
 7月が来てリンゴ処理が終わると、あとは10月の植え付けまで多少の土と一緒に冷蔵庫に入れて置くだけという。狭い冷蔵庫の上の方に空になったティッシュの箱に土と球根を入れて保管した。
 「本当にこんなことで正月に咲くのかねえ・・。」あんまり信用してなかった。
 そんな訳だから、そのまま冷蔵庫に入れてすっかり忘れてしまっていた。何かの拍子に冷蔵庫を開けたらティッシュの箱が入っていて、「なんぞこれ?」なんて3回くらい思った。でも、その都度、「おお、そういえばフリージアだ。」なんて思い出してはだんだん楽しみが膨らんで来ていたのも事実。
 10月も中旬を廻った頃、すっかりヨレヨレになって朽ち果てている
ティッシュの箱をそっと冷蔵庫から引っ張り出した。すると、な、なんと、驚いたことに幾つもの球根からあの平行脈の葉が青々と伸び始めているではないか。その時になって初めて「ううむ、これはもしかして咲くかもしれん。」と、ことの成り行きを理解し始めた。
 丁度、いつもの連中も鉢入れの頃で、たくさんの鉢を作った中に、この葉っぱの出ている連中も5.6鉢作って一緒に並べてみた。葉っぱが出ているなんていってもほんの少しで不細工で、ヒョロヒョロってしたヤツで、何時のも連中とそう違っているとは、やっぱり思えなかった。
 12月になって寒くもなって来たから、こいつらだけはちょっとは特別扱いしなくちゃならんかなって思ってふと見ると、なんと予想もしていない花芽が上がって来ていた。 今までは、どんな早いヤツでも3月の下旬にならないと花芽は出て来ない。なのに、12月に花芽。やっとこさ、事の重大さに気が付いて、慌ててこいつらを室内に取り込み、それからと言うもの完全な特別扱いで育てたことは言うまでもない。

 咲いた、確かに咲いた。それもしっかり正月に。息子夫婦が使った部屋に何の説明もせずにそっと置いてみた。案の定、彼らはこっちの苦労(なんて思ってもいないけれど)は気づかず、「綺麗だねえ。」なんてくらいの会話で終わった。それでいいのだ。
 彼らが帰って、今フリージアは私の寝室を飾ってくれている。次々と新しい蕾が開花して、この調子だと4月のいつもの連中が咲く頃まで私の相手をしてくれそうな様子だ。朝のまどろみの中で感じるあの香りは今までの経験にないだけに一層かぐわしい。冬の弱い日の光りを浴びて力強く蕾を開ける様は愛おしくさえある。
 そろそろベランダガーデニングにも飽きて来ていたけれど、この経験でまた暫らく楽しませてもらえそうな気がしている。


2009.3.3

 韓国・ソウルに行って来た。初の海外旅行だ。

 これまで何度が出掛けたいと思っていた海外だが、なかなかチャンスがなくて実現しなかった。どこから見ても日本は日本だし、今どき海外なんて行かなくても必要な情報は手に入るなどとうそぶいてはいたが、言語も歴史も生活習慣も違う場所に自分の身をおいて見えてくるものもあるのではないかと密かに期待していた。

 韓国・ソウルはただ単に安いから、そして日程がピッタリしているからという理由だけで選んだ。国内旅行と大差ない費用と時間で、知らない外国に行けてしまうという魅力はなんとも抗し難い。「ウルトラ信州」なんて企画で8時間も狭いバスに揺られて行く旅も良いけれど、1時間半で外国という企画は実に手軽に感じる。
 それでも、初めてのパスポートの取得や旅行会社から送られてくる書類の多さに少々げんなりはした。

 2月27日、午後5時30分に松山空港を飛び立った飛行機は、ほぼ満席の100人以上もの乗客を乗せては7時10分に仁川空港に降りついた。日本と韓国は時差がないとか。それで、経度の分だけ夜も朝も遅いなんてことが分かる辺りから「おお、よしよし外国だ。」なんて喜んでる自分がいる。手荷物検査でしっかり引っかかって恐そうなお姉さんに身体チェックされても嬉しそうに対応している自分が悲しい。ともあれ、なんやかんやと面倒くさい障害をクリアーしてどうにか韓国の地に降りついた。

 一歩空港に出ると、そこはハングル文字と韓国語の世界。「日本語は通じるよ。」なんて聞いてはいたけれど、あの、アもイも分からないハングル文字には初めから終わりまで辛い思いをした。すぐに模様のように感じるようにはなったけれど、文字からの情報が何一つ得られないという苦痛は辛いものがある。たまに漢字や日本語やローマ字があって意味が分かると、10日間の便秘から開放された気分になった。

 空港には20数人の現地案内人の人がぐるりと輪になって私たちを迎えてくれた。「さて、私たちのお相手は・・」と探して妙齢の女性が『阪急交通社様』の名札と共に目の前に現れた。3日間を共にするメンバーともここで初めて落ち合った。8名の旅人と現地案内人はこうして偶然に出会い、悲喜交々の旅をご一緒させてもらう事になる。

 着いてすぐ夕食と聞いていた。いよいよキムチと焼肉のご登場だ。ところが、楽しみにしていた夕食なのに、さっき機内食が出て、残しちゃ悪いとつい全部食べたりしたもんだから腹が減っていない。折角の韓国料理が美味いのだか不味いのだか全然分からないのだ。柔らかい骨付きカルビーも辛味の効いたキムチも目の前を通り過ぎるだけ。
 参ったね。

 ウオンという韓国の通貨が安くて買い物ツアーが流行りだと持て囃(はや)されている最中の旅行となった。空港で、私は買い物には何の興味も持っていなかったので、差し当たり1万ほどでも換金しておこうと列に並んだが、周囲がみんな10万、20万と換えてゆくのを見て、すっかり恥ずかしくなり、慌てて3万円を出した。それでも、45万ウオンになって返って来てメチャ儲かった気分になった。15倍だからねえ。
 しかし、ウオンを使う身になってみると、これが落ち着かないんだ。1万ウオンがおよそ660円。計算では簡単なんだが、おみやげのキムチが1万ウオンなんて書いてあるととっても高くて手が出ない感じになる。「660円」と言い聞かせても目の前のゼロ4つは強いインパクトがあるんだ。
 確かに物価は安いと実感した。あれが幾らこれが幾らというのはもう忘れたが日本の3分の2から半分って感じだ。暮らし易そうだという感触を残して帰って来た。そういえば、何処かのスタバのようなコーヒーショップに入り、ラージのコーヒー2つとクッキーで1万ウオンでおつりが来た時には驚いたなあ。

 私は旅に出ると、朝早く起きてホテルの界隈を散歩して写真を写すという習慣がいつの間にか出来ている。今回も、「何が待っているかな」とウキウキしながら、朝起きた。ホテルは近代的な立派なたたずまいだが、2メートル離れた周囲からは全くの別世界なのは昨日の夜から感じていた。車も入れない小さな路地が複雑に入り組んで、何やさんか分からない小さな店(?)が軒を連ねている。朝、カメラを持ってウロウロしていてもどこか身に危険を感じるような不安感は懐かしい。
 「日本と50年くらい違うかな。」
そう考えると多くのことが解決がつく気がした。屋根の粗末さも路上の汚さも、そうそう小さな印刷屋が何件も早朝から輪転機を回しているサマも、どこか少し前の日本を思い出す。

 さあ、朝食だ。韓国流の朝飯は何が出て来るかなって、8人で狭い食卓に着いた。
「おお、旨そー。」これが韓流か。その時、
「ウーロン茶、ホットとアイス。紅茶、ビ−ル。何にしますか。」
唐突に聞かれたので、みんながそれぞれにホット、とか紅茶とか言った。すると、
「ウーロン茶は6000ウオン、紅茶は5000ウオンです。」
有料?
遣られた!
8人の顔に苦笑いが走った。これが韓流か!!

 さあ、いよいよ観光の始まりだ。一つ目は利川ってところまで行って陶器の鑑賞。青磁・白磁くらいはオレだって知っている。入り口の看板が「漢青窯」って漢字だったのが嬉しかったけれど、中に入ってみたら単なるお土産やさんだった。「売らんかな」の雰囲気に嫌気がさしてさっさと外に出た。
 次が水原華城。韓国を観光に来た人なら必ずここに来るらしいけど、朝鮮時代(案内人さんはそう表現した)の城らしい。日本の城との比較が出来て面白い。日本みたく保護されていないのか、真ん中に道路が走っている。遠くに見える高いマンション群との対比も面白い。
 昼飯を食って(また、キムチが出た。)、免税店へ。グッチだディオールだと突然言われても私には何の興味もわかない。おばさんや若い女の子が目の色を変えて歩き回ってるのを尻目に被写体を探しに外に出た。
 「韓国にはパチンコやさんは一軒もないですが、公営のカジノが5件あります。」案内人さんがこう言って『カジノ』なる場所に初めて足を踏み込んだ。
「カメラはこちらで預けてください。」
あっさりとカメラを取り上げられた私は、まるで陸に上がった河童のように所在無くなってしまった。周囲はラスベガスのように(行ったことないけど)タバコと煌びやかな照明。簡単なゲームの説明を聞いてからぼんやり眺めていると、初めて様子が分かって来た。「私がやったら、熱くなること疑いなしだ。」と思いつつ、それほど面白いと思えなくて30分もしないでその場を後にした。
 ソウルという都市は漢江という大きな河の下流に位置している。どんな写真が撮れるか、この漢江クルーズが私の一番の楽しみだった。確かに、大きな河と白いマンション群の風景は美しいがどこまで行ってもそれだけ、何枚写しても何にも変わらない。その時は夢中になって30枚以上も写したけれど、こうして編集してみると、どれも同じでつまらない。それにしてもマンションが多い。地震が全くないから幾らでも建てられるとは聞いたけど、こう四角いものばかりだと味気ないと感じてしまう。まあ、こっちの勝手だけどね。

 昨日の夜、バスの中から案内人さんが叫んだ。そうそう、韓国の人って普通に話しているのを聞いていても、喧嘩でもしているように聞こえる。相手が間近にいても大声で叫び周囲をはばからない。あれは一体どうなっているんだろうね。
そうそう、バスの中で、
「この先のコリアハウスというところで韓国舞踊が見れます。ここだけは本当にお勧めですから是非見て帰ってください。」
 一人4000円とか。一日中をウオンで暮らしていて突然4000円とか言われると「安い!」って感じてしまう。頭で60000ウオンやぞって抵抗してもゼロ3つが優先するんだ。完全に弱点を突かれているよな。
そんな訳で、予定にない韓国舞踊なるものを見せて頂いたが、確かによかった。チマチョゴリに出会えたなんてレベルの喜びもあるけれど、本物の豊かな文化の香りがするものに出会えた気がする。

 さて、ソウル最後の夜は『あかすり』。この何とも奇怪な固有名詞はなんなのだ。どうにも怪しげな気配を感じながらも期待もちょっぴり。殿方は御夫人たちと別れて地下に誘導された。案の定、胸の方を少し開いたソッチ系のお姉さんが奥の部屋を案内した。
「おお、来た来た。」
 テーブルに座り、お姉さんはお品書きを指さしてノタマウ。
「お客さんには、全身マッサージがヨロシイかとオモイマス。」
 たどたどしい日本語が特殊な味わいを持って響く。横に50000ウオンと書いてある。
「何にもいらない」って断ったら急によそよそしくなって、ハイサイナラ。

早い話が『あかすり』というのは、サウナに入って、その後お兄さんが垢を擦ってくれるサービスが付いているという品物。あかこすりだって、申し訳なさそうな程度の10分ほどもこそこそやって、20000ウオンで特別サービスがあるよだってさ。それも断ったら、つれなく放り出されてあとは勝手にやってくれって感じで相手もされなくなっちまった。
まあ、覚悟はしてたけど、そんな程度の話だったなあ。
 ところが、ここからが事件。
 待合室に座って時計を見たら9時40分、テレビが野球の米韓戦を報じている。10時まで待った。女どもが出て来ないのだ。そうしたら、番台の声のでかいいつも喧嘩しているようなおっさんが寄って来て、11時頃になると事も無げに言う。相棒の78歳になるというおじいちゃんは、気楽にのたまう。
「わしゃ、鍵もモットらんし、部屋の番号もしらん。」
 先に帰るに帰れず、別行動って訳にも行かず、ソウルの貴重な夜がでかいテレビとくたびれたおじいちゃんの相手と1缶5000ウオンの缶ビールで過ぎていった。そうか、怪しげな不安とはこの事だったかと先見の無さをいたく反省。女性陣が11時30分に出て来た頃には、私が仙人のごとく静まり返った心で迎えたのは言うまでも無い。

 3日目。昨日のビールが残り、頭が痛い。ぼんやりした脳みそが「今日は宗廟と買い出しだ」と反芻している。今日はどんな朝飯かと楽しみにしてバスに乗り込んだら、すっかり打ち解けた案内人さんが気楽にのたまう。
「今朝は何をお食べになりましたか?」
「おいおい、朝飯はこっちで食うのかよ。」「ならば、昨日の内にひとこと言っておいてくれよ。」
別に散々飲んで食ってヘロヘロにくたびれている胃袋には一食くらい抜いた方が良いだろうけど、それとこれとは話は違うのだ。昨日の仙人のツケもあってか、朝からちょっとイライラした。

 宗廟は日本で言う寺のようなものか。美しいが薄っぺらい感じがする。案内人が魂の通り道を力説しても、ならば前もって「朝飯は各自になってます。」くらい言えよと聞く気になれない。こざっぱりした美しさはあった、ということにしておこう。

 昨日のくたびれたおじいちゃんは韓国が3回目とか。それで南大門市場に一度も行ってないから行ってみたいと言ってくれて、20分だけ時間を取ってみんなで行くことになった。これが面白かった。安さと活気。これぞ韓国って感じた。おびただしいほどの衣類の山、お土産から生活用品までどこまでも続いているように見える店店。時間がないので迷っている暇なんてない。2本10000ウオンのネクタイも5本5000ウオンの箸も「あ、これ」って買いあさる。旨そうな焼き鳥屋もあったしカメラ屋もあったがしょうもなくパス。ここだけはもう一度来たいもんだと思った。
 その後、予定にあった免税店もお土産店も何にも目に入らなかった。こうなる事が分かっているから当局は南大門市場を予定に入れないのだろうと予想してちょっくら悔しい思いになった。

 韓国は3月1日が独立記念日。韓国国旗がたくさん掲げられていた。独立の相手はもちろん日本だ。
「秀吉は韓国を攻めて、私たちはたくさん苦労させられた。」
案内人は豊臣秀吉は何度も罵倒した。
 しかし、植民地時代の(こういう表現があることすら知らなかったが)35年間については少しの事実を語るだけで口を閉ざした。話したがらない事が明らかに感じ取れた。日本ではすっかり過去のことになっている太平洋戦争が、韓国ではまだ現実の痛みを伴っている事を強く感じた瞬間だった。
 大陸と陸続きの朝鮮半島は長い間、中国と日本のハザマにあって何度も侵略されている。考えてみれば今も、北朝鮮に分断されて陸続きなのに中国へもロシアへも行けていないのだ。北朝鮮の存在が頭では分かっていてもこんな簡単な事さえ飲み込めていない。その地に立って考えてみないと分からないことはあるもんだと、つくづく思った。
 帝国主義の時代、攻めなければ攻められる。明治維新以後、日本が韓国を攻め続けた理由も今更のように肌で感じたことも事実。北朝鮮の国境まで100キロの場所まで行って初めて平和な今の暮らしを感謝したことも事実だ。

 海外旅行の旨みを知ってしまった。これからどうなるか。ああ、困ったことになった。

二つの呪文 2008.6.21

 私の毎日の暮らしの中には二つの呪文がある。
 ひとつは、サ・ケ・デ・カ・ツ・ゲ。仕事に出掛ける前などは必ず唱えることになる。大したことではないのだけれど、これが私の持ち物チェックなのだ。財布・携帯、そして、「デ」は手帳と筆記用具。これにかぎ束と仕事用の通帳と現金。この呪文を覚えてからはあれがないこれがないと慌てる事が本当に少なくなった。

 さて、もうひとつの呪文が今日の主題。『 ピ・フ・ギ・うた、畑(はた)・カ・ベ、碁・卓(たく)・写・PC・塾』というもの。 私のサイトに長い人は、すぐにああこれかとお分かりのことと思うが、これが私の生きている証のような呪文。ピアノ・フルート・ギターとうた、ここまでは音楽もの。畑・果樹園・ベランダ、ここまでは自然もの。そして、残りは単品で囲碁・卓球・写真・パソコン・商売となる。 日常の暮らしの中で何か遣り残しているものがないかなあと頭の中で整理をする時は大抵この呪文のお世話になっている。

 ピアノは、私の音楽生活の中で残った少ないひとつ。ドビッシーのアラベスク、メンデルスゾーンの無言歌から数曲、ベートーベンのソナタから数曲といったものがレパートリとして残った。モーツアルトもショパンも弾かない。あまり好きじゃないみたいだ。ピアノは週に1.2回というところだろうか。気が向いたら1.2時間って事もある。時たま弾いているようではミストーンを気にしている内に時間が過ぎるって感じもする。しかし、ピアノの全てを忘れて没頭できる感覚はなかなか他では味わえない。

 フルート。実は今の日常ではあまり出番はない。年に1.2回も引っ張り出したらいい方だ。でも、これを呪文に入れない訳にはいかない。フルートは、ひと頃これで食って行こうと決めた楽器なんだ。大学もこれで出た。若い頃、来る日も来る日もこいつと格闘した。大学3年の時、とんでもない大学の編入試験に挑戦して惨めにも敗退したが、今でも、生き方のベースのところにはこいつとの格闘の日々が蓄積されていると信じている。才能と運に恵まれない凡人は入り込んではいけない世界だということも知った。

 そして、ギターとうた。さださんを中心に、古い歌から売れていない新しいもの、そして自分でアレンジしたものまでまで50曲くらいのレパートリーを去年新調したギブソンのアコーステックギター1本でぼちぼち歌っている。中心的なものを挙げると「案山子」・「昔物語」・「夢」・「帰郷」・「明日檜」・「pineapple hill」・「晩鐘」」・「夢百合草(アルストロメリア)」・「道化師のソネット」・「恋愛症候群 その発病及び傾向と対策に関する一考察」・「雨やどり」・「岬まで」・「パンプキンパイとシナモンティー」・「飛梅」・「親父の一番長い日」などになる。また、自分でアレンジしたものが「秋桜」・「やさしい歌になりたい」・「冬物語」・「本当は泣きたいのに」・「秋の虹」、そして、長渕の「幸せになろうよ」・平原の「明日」・夏川りみの「涙そうそう」・中島みゆきの「糸」などが続く。譜面台2台に譜めくりしなくてよいようにコピー譜を並べ、2本のマイクとアンプでいつでも歌えるようになっている様はなかなか味があると思っている。
 以上が『ピ・フ・ギ・うた』。

 畑は、長い間サイトにも載せて来たけれど、同じようなことの繰り返しなのでサイトの方はサボりだしたが、旨い野菜を食べたくて足しげく畑通いは続く。今の季節は、茄子・ピーマン・トマト・ミニトマト・胡瓜・葱・インゲン・サトイモ・枝豆などが植えられている。秋には、ほうれん草・馬鈴薯・大根・絹さやエンドウ・レタス・キャベツなどを植えることになる。他にもいろいろ試してみたが、結局、これ位の連中が残った感じ。取りたての野菜は買って来たものとどうしてあれ程に味が違うのか今でもぜんぜん分からないけど、旨いものは旨い。この趣味がなかなか止められないたった一つの理由なんだ。

 果樹園。ホントにここまでやるなんて全く予定もしていなかった。砥部の山裾に300坪ほどの元ミカン農家の斜面を借りて何年になるだろう。梅を4本、ブドウを4本、桃を4本、リンゴを4本、ブルーべリーを4本、梨は4本、新しい柑橘のハレヒメが3本、さくらんぼ3本、洋ナシを5本、柿は3本、茶が2本、無花果が2本、栗が2本、柚子とカラタチが2本、清美タンゴールが2本、セトカが2本、オリーブが2本、アーモンドが2本、そして、枇杷・金柑・ラズベリー・ブラックベリー・なんとかべりー
・ポンカン・レモン・八朔・はまなす・タラの目・アンズがそれぞれ1本。 そして、先代からの温州みかんが20本ほどと薔薇・水仙・フリージア・芍薬・ボタン・百合などの花と、はびこる雑草たちで、私の世話をしている果樹園の全ての仲間の勢ぞろいとなる。果樹の寿命から考えると私の寿命が短すぎると感じるこの頃。あと付き合えても20年ってところか。

 ベランダガーデニング。マンション住まいの暮らしは、初めから鉢物でベランダを占有する予定だった。10年を越える経験からベランダガーベニングに合う植物がだんだん分かって来た。合わないものが果樹園暮らしになったといえば簡単だ。同じ花をベランダで育てるのは大抵は飽きる。その点、球根類は飽きないから不思議だ。フリージア、ラナンキュラス、アルストロメリア、水仙など球根ものが増えた。でも、チューリップは球根が再利用できないので扱わないことにしている。あとは、一年草がいい。50円くらいの苗を買って来て、華やかに咲かせて、散ったら「はい、さいなら」。手軽で、楽しめて、ベランダ向きだと思ってる。先日、壁の改修とやらでトレリスや電飾などを全て取り外した。知らない間にずいぶんたくさんのモノに覆われていると実感した次第。ここも人生を考えて、長い付き合いになった連中から少しずつお引取りを願おうと心には決めているのだが。。

 ここまでが自然モノ。自然との付き合いが大好きな身としては、この連中は大切なお友達。強く感謝している。さて、ここからが単品の登場。私の愛する小品にご登場を願うこととしよう。

 まずは囲碁。昔は街の碁会所に通い詰めたが、今はネットの時代。パンダネットという有料サイトで日々遊ばしていただいている。サイトの向こうには私と同じような思いで手ぐすね引いて待ち構えている碁楽友が数知れずいる。強い碁打ちが少ない街の碁会所とは比較にならない。しかし、パンダネットは今どれくらいの会員数なんだろう。おびただしい数であることは間違いないのだけれど。私は現在、六段☆。なかなか勝てなくなっている。相手も強いのだ。自分としてはこれが限界だと思うことが多くなった。勝負の世界でこんなことを感じたら先がないことくらいは分かっているけれど、現実を率直に受け入れる方が楽だと感じる。同世代プロの小林光一さんや石田芳夫さんの名前を見なくなり、敬愛する加藤正夫さんが逝去したあたりで受け入れるべきだったのだろう。それにしても、酒を飲んで打つ碁の下手になったことには自分自身で一番驚く。若い頃、一升瓶を空けて朝まで打ち続けて、そのまま仕事に行ったなんて話はもう夢幻しの世界だ。囲碁の抽象的思考は現実離れしているだけに面白い。囲碁の空間は銀河より広いなんて言っているプロもいるけれど、最善を考え出したら切りがない。そんなところが楽しいと感じてのめり込んで行ったのかもしれないと感じる今日この頃。

 そして卓球。健康の為と心に決めて始めて10年を越えた。これも勝ち負けが付きまとう世界。負けることが何よりも嫌いな人間としては大会に出ないと決めた選択肢は間違いではなかったと思わざるを得ない。幸いなことに最近ではゲームそのものよりも様々な練習パターンを組み合わせたシステム練習が楽しいので勝敗のでるゲームをしなくて済んでいる。
 それにしても、若い頃から続けている音楽や囲碁の世界と老いてから(?)始めた卓球という世界の差は何なのだろうと感じる。スマッシュだのカット打ちだのという技術は練習すればそれなりに身につくし、速い球への対応も練習次第のようだ。卓球は大好きだし、出来るものなら強くもなりたいと思って努力もしてきたつもりだが、どうにも囲碁や音楽の世界とは違ってある一定のレベルを越えられないし、これから越えられる日が来るとも思えない。それが若い時からやっているものとの違いだといってしまえばお仕舞いの話だが、捉えられないであろうともどかしさを感じつつ握るラケットを少々重たく感じるこの頃だ。

 写真は最近になって「趣味」の世界に合流した、いわば新参者なんだ。アナログの時代からたくさん写しては来たが趣味と言えるほどではなかった。それがデジカメ一眼レフなるものが出現して少々趣きが違って来た。なにせ、自分で画像処理が現像印刷が出来て失敗したものは右から左に消去できる。アマチュアカメラマンにとってこんな嬉しい話はなさそうだ。昔からニコン派だったこともあって、迷わずニコンのD70というカメラを手にしたが、やはり奥は深い。説明書片手に被写体に向かっている様では偶然の写真しか取れない。趣味として深めるにはもっともっと勉強して画像をコントロールできるようになることが必要なようだ。結局は『駆け出し』で終わりそうな雰囲気だ。

 パソコン。ほんと、こいつに出会って人生が変わった。いま、こんな事を書いて自分の人生を整理できるのもパソコンあって話だろう。囲碁も写真もこいつがなければ違う形にならざるを得なかっただろう。ネットの友達なんていう新しい形の友人も存在しなかった。ちょっくら、パズルにはまって無駄な時間を費やしている自分に腹を立てているけれど、ながらでテレビを見て暮らすことを考えれば及第点には入る。人生の最後にクリックひとつで全てをマッサラに出来るだろうと予想つくところもお気に入りなんだ。

 最後に商売。社会の有り様と自分の特性を考えてこの商売を始めたが、実にぴったりとこの身にフィットしていたようだ。食うことに事欠かなかったのも有難かったけれど、通ってもらう子供たちや親たちに感謝してもらえるのは励みになった。『高校にいれてナンボ』という考え方は実に単純で、「教育」を語って偽善に陥るより私に向いていたことは否めない。あと数年をしっかり教え抜いて若いヤツにバトンタッチしたいと願っているが、だんだん焼きが回って来て失敗が多くなって来て、使いものにならないって若いヤツから追い出されるんじゃないかって心配も出て来た。囲碁・卓球・商売のような真剣勝負の世界では自分の限界や衰退が顕わになり、いかに全力を尽くせるか、いかに体力を残していい仕事をするかなんてことを心配するようになった。

 呪文の世界がつつがなく繰り広げられるのもそう長くないのかもしれないが、今を大切にして、『 ピ・フ・ギ・うた、畑(はた)・カ・ベ、碁・卓(たく)・写・PC・塾』を唱えつつ今日のするべきプログラムを作り出して生きて行きたい。


悪寒 2007.12.17
 「ああ、また来るか。」そんな違和感が感じられると、『ピリピリ、うっ、うえっ』っという悪寒が上半身に走る。ほんの3.4秒のことで、心臓がドキドキしたり脳みそがひくひくしたりは一切ない。でも、ほぼ毎日ように一年以上にも渡って起こっているとなると何か尋常でないものを感じる。様々な場面で瞬間的に起こるけれど、何かに熱中した後、ちょっとぼんやりしている時などに多いように思う。山で果樹園の世話をした後、帰りの車の中で起きたのが最初だったと記憶している。一般的に言う動悸や眩暈(めまい)とは違うように感じている。何せ上手に症状を表現できないのだ。
 風邪などで世話になっている内科の医者に言ったら、心電図や血液検査などひと通りの検査をして呑み過ぎの肝臓以外はいたって健康だと薬もくれなかった。脳神経外科を勧めてくれる人もいるけれど、なかなかそこまで踏み切れない。わたし的には自律神経のバランスかなんかじゃないかと感じているからだ。
 20年程前、猫背が治せると『猫背矯正器具』なるものを背中に背負い込んで頚椎を痛めた事があった。いわゆる頚椎ヘルニアなんだ。整形外科で首を引っぱったり電気を通したりしてそれなりに治まっていたけれど、「もしかして頚椎からか」と疑ってみると素人的には全てが繋がっている様に感じた。今回、改めて高い金を払ってMRIやレントゲンを撮って調べてみたが確かに頚椎に異常はあった。でも、この悪寒との因果関係は医者でも分からないようだ。「うん、あり得るねえ。」なんてことをノタマう位が精一杯だ。ネットで整体なんかを読んでいると頚椎と自律神経の関係などはよく目にするけれど、ねえ。
 改めて整形外科を訪れて首を引っぱってもらい電気を通し始めて2週間くらいが過ぎた。自律神経に効くという漢方薬も買って飲み始めた。例の悪寒は相も変わらず定期的にやってくるけれど、どことなく何となく症状は軽くなっているように感じる。果たしてよくなるのか、やっぱり脳神経外科なのか。調べて何もなかったらそれでもいいだろうって声も聞こえるけど、やっぱり、恐い。。
  毎日がスリルとサスペンス状態だ。
七段堅持 2007.8.5

 7月6日に、パンダネットで七段に復帰して一ヶ月が過ぎる。七段になった途端に三連敗を喫した時には、「ああ、またすぐに6段★に舞い戻りだなあ。まだまだ、七段で打てる力量なんて備わっていないということか。」と首を洗って覚悟をした。ところがところがである、それからひとつの負けを挟んで破竹の7連勝。自分でも何が起きているのかよく分かっていないというのが本当のところかもしれない。
 これまでの生き方の中でどんな人生の分野にも限界があり、特に人と争って優劣を決めるような場面では、私の能力はあるところまでは上り詰めても自分の目標とするところを決めてそれをクリアーした経験はなかった。勝手に目標を高く決めて、ドンキホーテのように闇雲に戦いを挑んできたのだと考えてしまっては何の話にもならないが、自分の能力を信じ「ここまでは到達したい。」と思っていても、どうもその何歩か手前で挫折してしまう、いや、早い話が嫌になってしまうということのようだ。
 自己実現の為には努力が必要だが、その努力の方法論が下手くそなのもあるかもしれない。好きで楽しいうちは努力ができるが、ひとつのものを追求していて好きでいられるのがどの程度の段階かはどんな世界でも大差ない。あるレベルに差し掛かっ好きだけではやってられない。本物を得るには好き嫌いを越えたところからその一歩が始まる、と、それくらいのことは分かっている。ただ、それは私にとってもっとも苦手な『努力』の世界なのだ。
薄いピンクのホウセンカ

 囲碁は、小学低学年の頃、父親が打っているのを傍で見ていて覚えた。4人いる男兄弟達はみんな囲碁を打つ。当時はまだテレビもなく子供の遊びに囲碁は最適なもののひとつだった。将棋の方が子ども向きで、ご他聞に漏れず私も将棋の方が初めは好きだったが成長するに連れて囲碁の持つ抽象的な思考が合って来たようだ。2級くらいのところで中学生になり吹奏楽の部活動に飛び込んだあたりから囲碁も将棋もすっかり吹き飛んだ。特に囲碁は思春期の頃の訓練が大切だから、あの頃にもう少しまともな『努力』を積んでいたら、今頃、あとイチモクくらいは強くなっていたかもしれないと悔やまれる。現代社会ではたくさんのゲームが作られ出回っているようだ。他のゲームをよくも知らずに言うのは憚(はば)かられるが、囲碁ほどよく出来たゲームはないと信じている。
 アマチュア囲碁の世界では長い間、5段が最高位とされて来た。
院生というプロ養成機関で修行を積みながらも不幸にしてプロ棋士になれなかったものや、全国大会で優勝したものだけが6段を名乗れるという習慣も長い事あったように思う。しかし、ネット社会になって様相は一変する。居ながらにして全国、全世界の高段者と打てるようになればこれまでの習慣などは通用しなくなる。夢の6段7段が実現したんだ。
 七段で打ち出してその環境の変化も面白い。些細なことかもしれないが、ネット上のマナーが素晴らしく良い。挨拶から始まって、負け碁をだらだらと引っ張ったり、筋の悪い石が極端に少なくなった。途中で溜息の出るような想像もつかない素晴らしい手、美しい手に出会って、『敵ながらアッパレ』なんて心で拍手をして、その石を眺めている。碁は、強い相手に出会えば負けるけれど、自分が弱い時、下手くそな時にも負ける。べストな状態で対戦出来なかった時には相手の強さより自分の弱さに打ちのめされる。
 目標の七段で碁が打てていることが嬉しくてしょうがない。その七段の世界が予想通りの素晴らしい世界であることも嬉しさを倍増している。パンダには体調や精神状態を考えて出ていく様になった。普段のザル碁はヤフーの方でお世話になっている。こんな使い分けもやっぱり嬉しい。人生で初めて、自分の目標とした場所に身を置いて周囲を眺めてみると随分と風景が違っていることに気づく。「ああ、あの趣味は八合目だな、ああ、この趣味はまだまだ初心者に毛の生えた程度だな。」っとこんな感じだ。
 その内に、自分の人生そのものでも『目標達成』の金字塔を打ち立てたいものだ。
 

コトの顛末ー全日空のウダウダから 2007.6.21
 『全日空、130便欠航 6万9千人に影響』。これは、5月28日朝日新聞の一面トップの見出し。何と、この69000人の渦中に私たち家族5人もいた。これまでの人生54年間で、新聞のトップを飾るなんておめでたい出来事に遭遇したことは一度もない。そういう意味では是非記録に留めておきたい出来事だったといえる。
 今回の北海道への旅は3年前に死んだ私の母親の法要で、もう2ヶ月も前から準備されていた。3月に結婚した息子夫婦も参加できるということになり、女房と娘と5人揃っての北海道の旅をとても楽しみにしていた。飛行機やホテルはいつも私が用意していて、今回も世話になっている読売旅行さんにお願いし、色々調べてもらって格安のチケットを買った。それでも私ら夫婦の2泊のホテルと松山ー羽田ー千歳の飛行機代、息子夫婦と娘の1泊のホテルと羽田ー千歳。それにシビックのレンタル代も加えて20数万はあっさり出て行っていた。お袋の法要は、坊さんが途中で説教を忘れて謝罪するなんてあまり見られないハプニングもあったけれど、集まった親族一同の懐かしい昔話なんかにすっかり時間の経つのも忘れた。
 さて、すでにその頃、全日空のホストコンピュィーターは障害を起こしていたらしい。何にも知らない私らは27日。爽やかな日曜日を目覚め、札幌の大通りでパンジーを見てうろうろしたり小樽の赤レンガ辺りでそんなに必要としない買い物をしたり、短い北海道旅行をメいっぱいに楽しんでいた。予定の飛行機は4時半の千歳ー羽田のANA70便。3時半にシビックは予定通りにピシッと千歳に戻り、女房らを先に空港に下ろして、私は車を返しにレンタル屋に着いたところで、滅多の事では電話して来ない女房から突然に携帯に電話が来た。
 「ねえ、飛行機が飛ばないって言うんだけど、どうしよう。」
動揺の隠せない女房の声なんて最近は全ー然聞いたことがなかったから、何だか妙に可笑しくてこちとらはピシッと冷静になれた。空港に戻ると、中はこれは何ってくらいのもの凄い人の数でごった返していた。欠航便の窓口は17番ひとつ。ざっと数えても100人じゃあきかない人が並んでいた。みんな整然と列を作っていて、静かに自分の番を待っているように見えた。息子夫婦がその欠航便の長い列のドベの方に、女房は発券カウンターの方の列に、そして、娘はJALの方に行っていた。この用意周到な布陣に嬉しくなった。
 「さて、どこから手をつけるか。絶対今日中には帰ってやるぞ、コノヤロー。」
緊張の中でも闘志満々で、頭の中は次の打つ手を必死で考えていた。まるで囲碁の難解な場面での次の一手を考える気分だった。時間は4時半に近づいていた。でも、このしょーもない長蛇の列に並んでいても解決はつかないようだし。。
 「お父さん、JALの方は結構空いているよ。5時5分の関空行きに空席があるみたい。」娘からの携帯で、私らは即、動いた。ANAの喧騒をよそにJALの方は通常と変わらないような穏やかさだった。息子たち3人の千歳ー羽田は何の手続きもなしにJALに乗り換えられると、JALの窓口の優しいお姉さんに教えて貰って、まずひとつは決着、めでたし。ただでもしかし、私たち夫婦の分は関空行きに変わり、旅行会社発行の格安チケットなので窓口での払い戻しが出来ず、後日、その旅行会社を通じて請求してくれとのこと。この言葉に納得して75000円を払った。
 何の情報も与えられずにANAの17番窓口に並ぶたくさんの同胞にちょっとだけ申し訳ないような気がしたけれど、こんな非常事態に何の情報も示さないANAの姿勢の方に率直な疑問を感じた。日頃のあの意味の乏しくてしつこい機内放送に閉口している身としては、過ぎたるも困ることだけど、及ばざるはもっと困ることだと実感した。
 さて次はと、総合案内所に出向き、関空から松山までのJRについて調べてもらった。関空で30分。新大阪では14分。岡山で15分。これがそれぞれの乗り換えの時間だった。一度も使った事のない関空と新大阪はめっちゃ不安が走った。チケットも買わずに関空から新幹線に飛び乗り、駅員の「今度はきちんと買ってくださいね。」なんていう間の抜けたいやみを聞きながら、駅の標識を頼りに訳も分からないホームをクソクソに重たい荷物を背負ってただただ走った。岡山で、松山行き「しおかぜ○号」の座席に座り込んだ時には、もう全ての気力と体力とを使い切った感じがした。いや、女房なんてそれから3時間の殆ど全ての時間、ぐっすりと寝ていたんだから可哀相なもんだ。
 この戦後の引揚者にも似た強行なスケジュールに掛かった金額が25000円以上。つまり帰りの夫婦二人の交通費の合計だけで100000円以上という、当初の2分の1という金額を必要とした。加えて、 7時半には家に帰ってビールを引っ掛ける予定が、日にちが改まっても帰れなかったこの事実を全日空はどのように責任をとるのか。ほとんど乗客のいない「しおかぜ」の中で、私はそんな事をうだうだと考えていた。
 「千歳ー羽田の13200円しか返金されないそうです。」読売旅行の上甲さんはそれはそれは申し訳なさそうに電話口で言った。「へえ、格安とは知っていたけど千歳羽田でそんな値段かい。」差し引き75000円の損失も気になったけれど、最初に感じたのはそんな下世話はことだった。「こっちがどんな苦労をして、幾ら掛かって松山まで帰って来たかなんて、飛行機を飛ばす方には何の関係もないことだよな。」覚悟はしていたし、期待していなかったからこれまた冷静だった。「JALの窓口では、『請求してくれ』って言ってたよ。」って、一言だけ言い残して電話を切ろうとした。すると、この一言に上甲さんの声が変わった。「JALでそう言ったんですね。分かりました。頑張ってやってみます。」

 今日の午後になって、いつも電話の営業で話している人の声とは思えないほどの弾んだ声で上甲さんから電話が掛かった。
 「やりました!!。全日空が、関空までの飛行機代も関空から松山までのJRの代金も出すそうです。頑張りました♪」

 旅行会社と航空機会社。どんな関係になっているかなんて今まで考えた事もなかったし、安いパック旅行の代金がどんな配分になっているかなんて、興味はあったけれど覗き見るチャンスなんてそうあるもんじゃない。今回の事件はそんな隣人の切ない実情が見えて、実に楽しかった。期待していなかったから、いっぱい戻ってくると分かってわいわいと喜んでいる。
 考えてみたら戻って来て当然のお金なんだけれど。。。





半月板損傷 2007.3.6
 卓球をしていても右ひざが痛い。右足に体重が乗ると不格好に腰を落としてしまう。「これはどうやら尋常じゃない。」と感じ始めたのはそれ程に昔じゃない。
 これまでは、月曜日のTさんの卓球講座を2時間、火曜日にはコミセンでおばさんたちとダブルスなどを2時間というのが長い間の卓球生活だった。「折角好きでやっているのだから、もう少し強くなりたい。本物に出会ってみたい。」という思いが何処かにあって、もう一日くらい出来ないものかと思案していた。
 そうしたら、以前から噂で聞いていた愛媛卓球クラブ(以下TTC)に行ってみないかと誘ってくれる人がいて、あれ12月の中旬過ぎだったが、初めてTTCの門を叩いた。卓球台が6台置いてある1階は、何となく殺風景であまり流行っていない感じがした。「こりゃいかんかなあ。」と2.3人のおばさんが練習している様子を見ていて感じていた。ところが其処で指導しているOさんは、一目見た時「こりゃやるぞ」って分かった。シェイクハンドの鋭い振りから出るピン球は、おばさん相手には易しく振舞っているが、体のこなしや安定感が全然違った。「ああ、この人に習ってみたいなあ。」と直感した。それから、私の卓球週3回体制が始まった。特に木曜日のこのTTCは3時間は頑張る事にした。Oさんは案の定、すごい人だった。高校時代からの国体の選手で今も現役のプレイヤーらしい。私とは全く住む世界が違う。だいたい飛んでくるピン球の迫力が違う。私はすっかり楽しくなってしまい、すっかり没頭してしまった。
 思えば、それから私の右ひざはだんだん悲鳴を上げ出したようだ。初めの頃は2日もすれば回復した。その内、準備体操と終わった後のメンテナンスを丁寧にやって何とか保っていた。でも最近では、ひざの痛みが引かない内に次の練習日が廻ってくる。すっかり悪循環に陥ってしまっていたことは否めない。。
 「何かが違う。」。それまでの痛みとは何かが違っていた。右足のひざから下がカクカクする感じ、普通に歩いていても時おりカクンって外れそうな感じがする。ひざが痛くて革靴が脱げない。どれもこれまでに経験のないことだった。
 「半月板損傷ですねえ」。以前、頚椎の損傷で世話になった整形の医者は事も無げにそういった。レントゲンとMRIの写真を前に「ここを見てごらん、内側の半月板に白い筋が入っているでしょう。これが損傷です。」ヤツはまるで犯人を捕まえた刑事のように得意げに能弁に語った。 「へええ、これってそんな有名な病名なんか。」わたしゃ、どこか他人事のように聞いていた。ところが、「治りますか。」って何気なしに訊いたら、医者は急に真顔になって喋りだした。 「いや、
半月板損傷といえば手術をしなくては治らないと云われているが、そんなことはない。状態によっては手術をしなくても治せる場合もある。」。。
 「おいおい、待ってくれ。そんな。。えらい事やんか。脅かさないでくれよ。」正直、そんな心境だった。「オレはちょっと右ひざが普通じゃないなあって感じで来ただけじゃん。」なんて思っていた。「そーいえば、多くのスポーツマンがこの怪我でリタイヤしているか。」神妙に医者の言葉を聴いた。
 そしたら、改めてMTRを指し示しながら医者は、「ああだこうだ何だかんだ。」と説明を加え、突然「暫くはサポータと湿布で様子を見ましょう。」と言った。そして、美人の看護婦さんが10秒も掛からずに湿布を貼って治療は終わった。
 右ひざの白い湿布薬をぼんやりと眺めながら「半月板損傷って何」って訝(いぶか)しく思い煩っている。


 加藤正夫さんの碁 2007.1.17
 12月の下旬には、恐れていた6段★に降格してしまった。ベストを尽くして打っているつもりだけれど、何処かに満足してしまった自分がいて、以前のような飢餓感がないように思っている。目標を達成したということがこんな心境を作り出すことも分かっているが、さりとて妙薬もなくその後もずるずると負け数を増やしている。
 以前のように少しは本を開いて石を並べて勉強もしなくてはならないと思ってはいたが、これまた、古い本は飽きたし新しい本を求めて本屋に行っても気に入った本になかなか出合えない。私の勉強法はもっぱら好きなプロの打ち碁集を買って来て自分でゆっくり石を置いて鑑賞するという方法だ。プロが真剣に打った碁のコメントを読みながら石を並べるとまるでその場にいるような臨場感が得られるし、彼らの思考回路が分かりその深さや広さに驚嘆することが多い。また、人によって書かれている内容が全く違うのも勉強になる。大竹美学と云われるように大竹秀雄さんの本には「石の形が美しいでしょう。」なんて言葉が並ぶし、コンピューターの異名を取る石田芳夫さんの本は中盤が過ぎた辺りで半目勝ちを読み切ったりしている。
 そんな中で、私がよく並べているのは加藤正夫さんの本だった。彼は、若い頃は「殺し屋加藤」なんて物騒なニックネイムを頂いていた。それは取れそうもない石を取ってしまう豪腕から付いたものらしいが、これとは対照的に、いつも穏やかな物腰でにこにこと聞き手に回る加藤さんが何処となく気に入っていた。
 今日、そんな古い加藤さんの打ち碁集に手が行って、久し振りに並べてみた。昭和51年、棋聖戦決勝5番勝負の第一局。「やはり何回か並べているな。」とすぐに分かった。でもそれは承知の上だし、そんなことより加藤さんの碁に対する真剣な気持ちが以前とは比較にならないほど強く伝わって来て、石を持ちながら何度も感動した。
 『棋士の使命はいい碁譜を残すことであり勝敗やタイトルは二の次だと思う。』と書き出しているこの碁譜は、今の私が一番大切にするべき『真剣に囲碁を愛すること』について教えられたような気がする。人間は愚かだから勝てば慢心し負けが続けば落ち込む。人一倍囲碁が好きだと自認していても何処かで投げやりになったり諦めている自分もいる。第一、ろくに勉強もしないで強くなれる筈もない。加藤さんの碁を並べて、久し振りに本物の血が流れるような碁を見せて頂いたような気がした。
 加藤さんは晩年、多忙の理事長職を引き受け心労を重ねたと聞く。そんな中でも理事長室で若手と碁を楽しんでいたらしいが、突然この世を去ってしまった。思えば、故人となってから初めて加藤さんの碁譜を並べた事も大きかった。人はいずれ死ぬ。それまで如何に人生を楽しむか。そんな事実を真摯に示されたように思う。


フリージアの色に 2007.1.10
 ベランダで鉢物を育てるようになって長くなった。暑い時寒い時、花の世話をする時にのんびりと幸せな気持ちになれる事が長く続いていた最大の理由のように思う。植物は世話をしてやれば、いい花を咲かしてくれる。ちょっとサボるとちょっとだけの花を咲かしてくれる。正直だ。
 数ある花の中でも、私はフリージアが好きだ。球根であること、香りがあること、平行脈がすっきりとしていることなど、理由を挙げたら切りがない。このフリージアの花の色は、一般的には黄色が多い。私のベランダにも一鉢だけ黄色がある。しかし、私のベランダの10いくつもある鉢やプランターは殆どが赤色で占められている。赤が嫌いな訳ではないが、初めの頃は純白の白や濃い紫やピンク色だってあった。それが何年も咲かせている内に、全部赤になってしまった、私はそう信じていた。
 改めて他の色を買って来て混植しても構わないけれど、何とかして花の色を元に戻すことは出来ないだろうか。毎年、秋口の球根を植えつける頃になると土を変えたり、肥料の成分を変えたりして、『実験フリージア』などと名札をつけて育てたりしていたが、赤色のフリージアは次の年にまた元気の赤色を咲かせてくれていた。
 今年のお正月に、ぼんやりとネットをうろうろしていたら、ガーデニング・植物の総合情報サイト【園芸ナビ】なるところに出た。その中に園芸相談の掲示板があって何人もの人があれこれ書き込んでいたので、これは試しに、駄目で元々と思って「フリージアの色を元に戻したい。」と書き込んでみた。

 おそらく同じ球根の花の色が変わるのではなく、強い性質の色の球根が生き残り、他のは絶えたのではないでしょうか・・・色の濃淡の変化なら同一の球根でも起こることがありますが、まったく違う色になるというのはありえません。 中略
 球根で極端に違う色に変わると言うのは普通考えられないことなのです。フリージアに種が出来てそれが育つと違う色の花が咲くということはあります。でも球根の中の遺伝子情報は滅多に変わることがなく、赤は赤く咲き、土の栄養分が足りないとか日光不足で色が薄くなることはあっても、遺伝子の色素情報は変わりませんから白や紫の球根から赤が咲くというのは不可能なのです。

 以上が、ばんざいうさぎ さんという方の投稿です。全く、目から鱗・・とはよく言ったものです。「遺伝子かあ。」私はハタと膝を叩いて納得しました。全く不明の至りです。勝手に球根の色が変わったと思い込んで世話を続けていた私はまるで道化者のようです。次の日、慌てて近所の種苗店に行ってフリージアの球根を捜しましたが、時期すでに遅く、自分で確認をするにはまた一年を待たなくてはならないようです。今となっては、一鉢だけ黄色で咲いているフリージアを見ながら、「こいつはいつになったら赤くなるんだろう。」思っていた自分が滑稽にすら感じて来ます。

 また、これからのベランダ園芸にひとつ楽しみが出来たと心から喜んでいる。


七段に昇段 2006.10.22
 今朝の一局に勝つことが出来て、長い間の大望だった七段に昇段した。この後の言葉がなかなか出てこない、そんな感慨に浸っている。
 ネットの囲碁サイト・パンダネットの会員になり、5段で碁を打ち始めて何年になるだろう。初めはネット碁の様子が分からず辛い思いもした。高段者にマッタをされるなんて前代未聞の経験もした。しかし、慣れるに連れて徐々にネット碁の良さを理解し始めた。何より好敵手がたくさんいる。顔は見たことはなくても、棋風は名前を見れば分かる。そんな相手にたくさん恵まれた。また、時間制限が厳格で、相手が手合い時計を押し忘れて、こっちが緊張するなんて馬鹿げたことも起きない。いやいや時間内ならコーヒーを飲もうがメシを食おうが、暑い時には裸で対局してもなんら問題ないなんてのが、ずぼらな私には向いていたのかもしれない。
 パンダネットは5段・5段★・6段・6段★と、各段位が2つずつ分かれていてこの階段を一歩ずつ上がって来た。現在までの対局数2862、勝ち1641、負け1210、勝敗なし11、勝率0.58だ。一局に1時間掛かるとすると2862時間、およそ120日間に相当する。全く好きだから打ち続けられたとしか言いようがない。特に6段★に上がってからのこの半年ほどは相手もつわものが揃い出し、負けが込んで落ち込むことが多かった。自分の体調や精神状態がこれほどに対局に影響を及ぼすとは思わなかったなんて経験もした。卓球でへとへとになった後に対局すると、自分の思考がどうにも深くならない、創造力が必要な場面で、あっさりと定石や形に頼ってしまう。心が充実していない時に打つと、どんどん早打ちになり読みの入らない感覚の碁になり荒っぽくなってしまう。真剣になればなるほど自分の能力のなさに打ちひしがれる日々になった。
 最近分かってきたことがある。それは、勝ち負けを急がないことなんだ。何でもそうなんだろうけど、少しこっちの方が良いかなあと感じているときが難しい。以前なら一気に決めに行きたくなった。逆に、少しこっちが劣勢のときは我慢が出来なくて無理な勝負手を放って負けを早めていた。最近は、こんな状態をわくわくしながら楽しんでいる事に気づく。一番苦しいときは、実は一番楽しいときなのかもしれない。碁は一手目から300手前後の最終手までそれぞれにはっきりとした意図があるが、特に、100手目くらいまでは定石と感覚が大きくものをいう。また、その後の勝負どころといわれる何度かの逸機での一手はその後の碁の姿を大きく変えることになる。そんな時は直線で20手、途中からの変化を入れて50手くらいは先を読む。こんな時には、予想した図が有利か不利かを判断するのが一番難しい。これも結論を早くに出さなくなった。こんな時こそ一番楽しいと感じられるようになったからだと思う。
 七段という段位は夢だった。昔、院生(プロの卵)をしたような人間しか到達できない世界だと思っていた。こんな素人の自分が初めて七段になれたことは趣味の世界とは言え、本当に嬉しい。テレビや新聞でプロの高段者の碁を見ると、よく彼らの見識の深さに脱帽する。彼らの打つ石には素晴らしい閃きがある。やっと、そんなことが理解できるようになったようだ。碁盤に、名局といわれる一局を自分で並べて静かに感動しているとき、碁が少し分かるようになって来たように思う。
 負ければ落ちる。囲碁の世界は厳しい。でも、落ちても良い。また頑張ればいいんだ。一度七段になったという事実だけは、今日はっきりと確定したんだから。


’06 果樹園農作業日誌 2006.4.28
 暖かい日が続くと「地球温暖化」が警鐘されるが、こうも寒い日が続くと「地球温暖化、大いに結構じゃないか」と少々毒気を含んだ言葉と噛み締めながら、雨に濡れた山の斜面と恨めしく眺めている日が多い、そんな平成6年の春だ。
 林檎も梨もさくらんぼも、実が付いて大きくなって来て、「もう少しで食べ頃だなあ。」と思っていると忽然と無くなってしまう。どうやらそれが鳥の仕業と分かってから、「いつかは防鳥ネットを張ってやる」と心で誓っていた。去年の春、塾を建てた時、古材がたくさん出たので建築屋さんにお願いしてトラック一台分を山に運んでもらった。秋頃まで、そいつをちらちらと眺めている内に「オーシ、やっちゃろーじゃないか。」という気になった。
 頭の中で構想を立てるのが一番楽しい。どれくらいの間隔でどんな風に柱を立てるか。柱は、ネットはどんな材料が必要か。建築屋の古材だけでは全然足りないことが分かって頻繁に西村ジョイやDIKをのぞいて構想を(いや、妄想かも)広げていく。そして、高さ2メートル幅28メートル、縦21メートル、柱の数80本、板の数150枚というとてつもない大きな空間を想定してしまった。ネットも300坪のものを2枚つないで使うとちょうど良いと、計算上は成立した。どこか半信半疑だった。

 20本ほどの柱と50枚ほどの板材を買って山に持ち込んだ辺りから、私の脳みその中は、「あれをこうして、ここをこうして。」と、大きな妄想が、いや、構想が広がってしまっていた。2メートルの柱はそのまま地面に立ってはくれない。「こいつを立てるにはどうしたらいいんだ。」小屋のすぐ横の一本目は取りあえず地面を掘って埋めてみた。一本立てるのにとんでもない労力を必要とした。穴を掘るという作業は重労働なんだ。「こりゃ、やれん。」と諦めた。
しばらく考えて、柱を半分に切り、 その先を尖(と)がらせてハンマーで地面に打ち込み、これに2メートルの柱をボルトでつなぐという方法を考えついた。(ウン、オレはあたまがいい。)
 これもそれなりに重労働だが地面を掘ることに比べればかなり楽だ。こうして一本また一本、柱が建ち始めた。頭の上をカラスが騒ぎ立てるのをいまいましく感じながら、「今に見てろ」と、来る日も来る日も3メートルの板材で柱と柱を繋ぎながら徐々にそのテリトリーを広げていった。 去年の秋にはこんな記憶がある。木枠の組み立てが終わった時、「来春のネット張りはチョイチョイよ。」と、もう完成は間近かの様に甘く見ていた。
 3月に入り、さくらんぼが小さな実と付け始めているのを見て、そろそろネットを張るか、と秋の構想を思い出した。このままネットを張ってもひとつのマスが大きいので針金で縦横を仕切るつもりだった。ネットは上から被(かぶ)せばOKのつもりだった。
 頭の中で思うのは簡単だ。一日で出来るだろうとぼんやり思っていた。でも、実際の作
業はとんでもない。「針金で仕切る?、簡単に言うけど、どうやってやるの」。手を伸ばしてもちょうど届かないくらいの高さでの作業は、思いのほか能率が悪い。斜面を何度となく上がり降りするのは足腰の訓練なんてレベルの話じゃあない。「一日で出来る?ジョーダンじゃないよ」。(ウン、オレはあたまがわるいかも。。。)
 針金を張るだけでも半月は掛かった。(ネットは上から被せるだけ?うそだろ)。ナイロンで出来ているネットを2メートルより上で広げるなんて作業は、もうたいへん。板に、針金に、そしてオレの洋服のボタンなんかに細いネットの糸が引っ掛かる。これがなかなか外れないんだ。また、ひし形に広げようとしても手の届くか届かないかの頭の上の作業、まして300坪からあるネットがスルスルと広がる訳がない。あっちで絡(から)まりこっちでからまり、ひとつほどくのに30分なんて平気なんだ。これにはもう泣きそうになった。ウグイスも鳴いてはいたが。。(苦笑)。 そして、何と言ってもネットの裾を囲うこと。中途半端にネットを垂らして置くのは私の性分ではない。ネットの裾に針金を通して300坪をぐるりと囲う。まあ考えるのは簡単だったということにしておこう。
 それに、葡萄棚。4.5年前の棚は、もう崩れる寸前でどうしたって補修が必要だ。初めの頃に作った棚はそれはそれは貧弱な粗末なものだった。「これをこうして、あれをああして」。また、頭の中の構想は判断が早かった。「葡萄棚とネットの間には30センチは隙間がほしい」。これまでは棚とネットが同じ高さだったので葡萄のツルがネットに絡んで作業がし難かったからだ。「ああ、それにこっちにも少し棚を広げたい」。思うのは簡単だ。実際にやってみると、古いネットの除去から朽ち掛けている棚の補修から30センチを持ち上げるための補強から、もうやってやんないでやんの。」 これも一日で終える筈が何日掛かっただろう。春はしなければならない作業がたくさんあるって言うのに。
 4月、新学期が始まってまとまった時間が取れる様になって作業は急速に進んだ。一週間、皆勤で山に詰めた事もあった。春の雨の中で、どうしてもこれだけはやってしまうぞって金槌を振り回していたことも何度かあった。全部ひとりだから、全部自分と対話をしてやって来た。思う自分と動く自分。どこか互いをののしりながら楽しんでいたように思う。  完成したネットに間違って突っ込んだ小鳥が3羽も生け贄になった。焼き鳥にして食う勇気もなくてその辺に放って置いたら忽然となくなった。驚いたけれど、猫か猪かが処分してくれたようだ。さくらんぼの蕾は今日も一粒も減らない。


 こころで好きと 叫んでも
 口ではいえず ただあの人と
  小さな傘を かたむけた
   ああ あの日は雨
    雨の小径に 白い仄かな
     からたち からたち からたちの花

 島倉さんが唄うあの細く澄んだ声は、私の幼かった頃の心の片隅に刷り込まれている情景のひとつで、「からたちの花ってどんな花なんだろう」と、長い長い間、解決できずに成長して来た。
 「からたちは柑橘類の台木として使われている」。こんな話を聞いてから、自分でからたちを育て、自分で種から発芽させたからたちを台木にして蜜柑の木を育ててみたい。それはどこか神懸った信仰のようなものになっていたかも知れない。「はじめての果樹」・「趣味の園芸作業12ヶ月」などの本にも蜜柑の接ぎ木の仕方として紹介されている。 「いつか自分でやってみたい」。この思いはどんどん強くなっていった。
 柑橘を売っている園芸店でからたちの苗を探しても見たことはなかった。知り合いの百姓に頼んでみたが、見たことのないと言って断られた。どうやらプロも、果樹の苗木は農協から買うようだ。「からたちを台木にして接ぎ木?止めとけ止めとけ。何年掛かるか分からんよ」。彼はそんなことをいっていたように思う。
 親しくなった種苗センターの店主にそんなことを打ち明けたのは、今から何年前の事だったろう。

 「取り寄せすれば手に入りますよ。」
 彼の声は、私にとっては天からの響きに似ていた。1本650円。一般の柑橘の半分の値段でからたちの木は手に入った。 この木が実を付けるのに5年、その実が発芽して台木として使えるようになるのに3年はかかる。いつかプロの百姓が言っていた言葉を思い出していた。
 「挿してみろ。つくかも知れんぞ。」
 居酒屋で知り合った植木屋のひでさんは事も無げにそう言い放った。つまり、からたちの枝を鹿沼土に挿して新しい株を作る方法で、挿し木という手法があることはそれまでにも聞いたことはあったけれど、からたちに挿し木が出来るとはどんな本にも一行も書いていないことだった。
 「うまく芽が出たら、早いだろ。」
ひでさんは自信ありげだった。
そりゃ、早いさ。今からだってやれる。そう思って挿してみたのは3年前位だろうか。20本ほど挿して5本ほど発芽した。正直驚いた、嬉しかった。ひでさんに報告したら、「そうだろう。」って、笑っていた。
 去年の春に挿したヤツはこの春、3本ほど発芽している。種苗センターから買ったやつもたくさんの花を咲かせて今年には初めてのからたちの実を実らせそうだ。
 「このからたちの木を何もそのままにして置くことはない。こいつの一部に接ぐことは出来るはずだ。」そう思い立つと、念願の「接ぎ木」の話はにわかに現実味を帯びて来た。
 接ぐのは、今業界で流行(はやり)の『せとか』とグレープフルーツ。本当は最新の『はれひめ』という品種があるのだけれど、まだ手元にないので今回は諦めた。3月の発芽前に穂木(ほぎ)を切って冷蔵庫に保管せい、と本にあるのでそうやって準備を進め、4月の中旬以降が接ぎ木に適していると本にあるので、昨日、覚悟を決めて念願の接ぎ木を決行した。せとかを4本、グレープフルーツを8本を接いだ。
 長い間の夢はほんの1時間ほどで終了した。新芽が出るかどうかはしばらくしてみないと分からない。でも、そんなことより、「あのからたちの木に、自分の力で柑橘を接いだ」という事実だけがじんわりと、私の心に残っている。
 またひでさんに「接いだよ。」って報告したいのだが、もうそれは叶わない。
 


ヒカルの碁 2005.3.4
 「ヒカルの碁」を読んだ。三日間をかけて23巻を一気に読んだ。この漫画の存在は以前から知っていたが、切っ掛けがなくて読んだことがなかった。何の気なしに入った食堂の何の気なしに座ったカウンターのすぐ横に第一巻が置かれていた。パラリと2.3ページめくってからは怒涛の如く息も次がずに全巻読みきったという感じだ。
 現代日本で碁を打つ少年少女は少ない。少年漫画の世界が野球やサッカーのスポーツもので多くを占められ、これまで将棋が登場したことは何度かあったが囲碁が物語の中心を担うという設定は私の記憶にはない。「ヒカルの碁」の発刊以来、街の碁会所に時々子供の姿を見かけるなどという話を耳にして、私はひとりの囲碁ファンとして嬉しく思っていた。
 物語は、いたってシンプルな作りだ。囲碁になんて全く興味のなかった小学校6年生のヒカル少年がおじいちゃんの家の蔵で古い碁盤に憑依していたsaiの霊に取り付かれる。saiは江戸時代の碁打ちで有名な本因坊秀
策にも憑依していたなんて設定が嬉しい。ヒカル少年がsaiを喜ばす為に石の持ち方も分からずに碁を打っていく中で、どんどん囲碁の魅力に引き込まれ、2階の自分の部屋でsaiを相手に1人で石を並べる設定なんてのもやはり囲碁ファンとして嬉しい。
 私は、幼稚園の頃に父親が近所の人と打っている碁を横で眺めながらルールを覚えた。テレビもない時代で、碁盤と碁石があればたっぷり遊べる囲碁は、当時の子供には格好のゲームだった。二級くらいで街の集会所に連れて行かれて打ったのは小学校の低学年の頃だろう。当時の子供のご多分に漏れず、私は将棋の方が好きだったし強かった。小学校の高学年になろうとしていた頃、親父が初めての人のところに私を連れて行き、将棋を指した。当時の記憶だけでも、「ああ、この人はこれまでの人とは全然違う。」と感じた。何ともいえない緊張感の中で将棋の駒がギシギシと擦り合わされていった景色は今も鮮明だ。競り合っていた駒が弾けるように動き出したかと思うと、私の駒は無残に崩されてボロボロになって負けた。
 ヒカル少年が棋士の養成コース「院生」として修業する姿は、この本の主題とは少し離れるのだろうけれど、私のような素人の碁打ちには興味深い。才能ある若者が真剣に競い合う世界は何処も同じ臭いがするのかもしれないが、囲碁は、数少ない個人の努力と才能が正面からぶつかり合う。「ヒカルの碁」は、ホンの少数の選ばれた天才とその他多くの選ばれなかった凡人が赤裸々に書かれていて味わいがあった。
 私は、中学・高校・大学と全く碁にも将棋にも触れずに過ごした。我ながら残念なことだ。もしヒカル少年の様に若く多感な時期に本格的な碁の勉強をしていたら、今よりはもう少しまともな碁が打てたのではないかと思う。今年に入って30連敗くらいを経験した。もちろん五段に格下げになり、碁が打てなくなったのではないかと思った。何度もやめようとも思った。これまでもスランプはあったが、今回のそれは明らかにどこか違っていた。私のような素人が人に教えを乞うのは無理なことかも知れないと感じ始めていた。自分の石が打てなくなって以来、たくさんのお金を払って通っていたNHKの囲碁講座はパタリと休んでいる。

 ある日、突然にsaiがこの世(?)から消え去り、中学生でプロ初段のヒカル少年は碁が打てなくなる。馬鹿げた設定だと普通の人ならば笑うかもしれない。もしくは、ありふれた話の展開に何も感じないかもしれない。でも、私には違った。saiを探し回るヒカル少年に囲碁に対するこれまでにない愛情を感じたし、碁打ちの意味深長な思考回路の一端を探れたように思えた。半年ほどの不戦敗、碁を辞めるかどうかの葛藤の中で、彼は、友人の為に一局だけ打つ。
「ああ、何処にもいなかったsaiが此処にいる。碁盤の中にsaiがいる。」
 このシーンに、不覚にも目頭が熱くなり、鼻の奥が詰ま
った。

 碁打ちは、私のような素人でも最善を尽くして次の一手を追い、何手も先を読み変化を考え結果の図の善悪を判断する。相手がどう打つかよりも、その場面での双方の最善の展開を予想する。こうして、長年碁盤上で培った発想が私の人生の「生き方」の方程式になっているように感じる。
 囲碁が教えてくれたこんな人生の歩み方を「ヒカルの碁」はさり気なく復習させてくれているように思う。
新芽 2005.2.24
 北国や北陸からは積雪20センチなどと言う便りが聞こえる季節だが、それは、百姓には新しい一年の始まりを示すプロローグに過ぎない。
 去年11月の末頃、畑の後始末をしていた。すっかり枯れていたピーマンの木の下からちょうど良く萎(しな)びて紅くなったピーマンが数個見つかった。何時もならゴミ袋にぽいっと捨ててお終いなのに、その時はふと手が止まった。
「ああ、綺麗な朽ち果て方をしているなあ。こいつ等には立派な遺伝子がたっぷりと組み込まれているんだよなあ。このまま2回目の命を燃やすことなく消す去るのはかわいそうだなあ。」
 つい神妙な気分になってポケットに入れたよれよれのピーマンは、その後しばらく我が家のベランダで静かに熟成の時を過ごしていた。
 以前は何度か種から育てて遊んでいたが、たくさん手が掛かって面倒くさいし買ってもいいところ1ポット100円くらいなので、すっかりサボり癖がついてここ何年かは種植えなんてしたこともなかった。だいたい一種類3ポットもあれば用が足りるのだからその方が当然だとモノの本にもしっかりと書かれている。それに、近年は品種改良が進んでいるから種から植えても去年と同じピーマンは出来ないんだ。もっと旨いものができる可能性もあるけれど、大抵はアウトだって知ってはいる。
 でも、今回はこんなことそんなことはどうでも良かった。あの畑に転がっていたよれたピーマンがどんな新しい命を作り出すかどうしても見たくなった。それだけのことだった。

 「折角、種植えをするのなら久しぶりの本格的にやってみるか。」
12月の中頃だっただろうか、そんな気になって園芸店を覗くと、いつもの事ながら数十種類の種の袋がズラーっと並んでいた。でも、これが危険なんだ。特に発芽は時期の選定が難しいからいつ植えても芽が出るといったものじゃない。隣でニラだとかオクラなどを手にしているおっさんにひと言忠告が言いたくなるのとぐっと抑え、いつも世話になっている桃太郎のトマトと長茄子の種を一袋ずつ持ってその場を離れた。同じナス科の連中ならば発芽に支障はないのだ。
 1月の末になって太陽の陽射しが幾分か力を取り戻したのを確かめるようにして、私は種植えを敢行した。とはいってもそんな大袈裟なものではない。実に簡単なんだ。育苗箱に(これも市販はされているけれど、私のはその辺にあったリサイクルの箱を使ったもの)、適当に土を入れてパラパラッて、種を蒔くだけ。 買ってきたトマトとナスは1袋の3分の1も使わなかった。例のピーマンは一個と半分だけ蒔いた。後は水をタップリとやってこれで終わり。
 難しいのは置くところ。べランダに置いても芽は出ない。「発芽に必要なのは水分と温度」。中学生には毎年そう教えるけれど、言うとするとは大違い。適度な水分と適度な温度を保つのは一般家庭では易しくない。今回私は辺りを見回して、私の部屋の箪笥の上に決めた。光は全く必要ないからきっと上手くいくという確信はあった。
 置いてしまえばそれから二週間、何にもすることがない。間違っても水をやっていけない。そんな事をすると出るべき芽も腐ってしまう。要するに忘れていればいいんだから一番楽だ。しかし、発芽した瞬間がこれまた大事なんだ。種は双葉を地上に遣わした瞬間に光合成を始めようとするから、暗いところに置いたままだと、一日のうちにモヤシのように徒長して一巻の終わりとなる。だから双葉を発見すると同時に今度は窓際に場所を変えてやる必要がある。それなら初めから窓際に置いておけば良いじゃないかって?。ははは、甘いな。発芽には25度くらいの温度がいるんだ。そして発育は15度くらいでいい。この差が重要なんだ。
 植物の世界こそ熾烈な競争が待ち構えていることをご存知だろうか。育苗箱にはほんの数日の間に100本前後の双葉が並ぶ。ちょっと出遅れて隣の双葉の陰になるともう the end. 徒長の大きな原因になるので即日私に抜き去られてしまう。以前、これができないが為に何度も失敗を繰り返した私は、最近はこの出遅れた双葉を抜き去るのにえらく快感を感じる。一体何故なのかと疑問に感じる時はあるが、深くは考えない。
 それからまた2週間もすると本葉が2枚くらい出てくる。これが移植のサインなんだ。プラスチックポットに土を入れ科学肥料をパラパラと入れて、その中に台所から持って来たスプーンで可愛らしい苗木を1本1本移植する。今日まで合計36本の苗木を作った。まだ後24本くらいは出来そうだ。
 発芽という現象は何度遭遇してもマジックのように思える。どうしてあんな小さな一粒の種からこんな美しい双葉や本葉が出現するのだろうか。自然の営みが持つこの偉大な作業を目の当たりにする度、理屈を教える商売に警鐘が聞こえるような気がする。また、現代人の多くが忘れ去ってしまった自然への畏怖心を思い返すような気がする。
 それにしても、これらが全部実を付けたらどうしよう。
囲碁講座 16.12.24
 10月からNHKの教養講座で地方棋士に付いて、鑑賞したり打ってもらったりしている。我流の石がそう簡単に筋が良くなるとも期待していなかったが、これまで好きで続けて来た碁なのだから一度プロと呼ばれる人に習ってみるのも良いのじゃないか、って気になったので、それほど深く悩まずに松山NHK文化センターに出かけた。
 T先生は、70才前後で細身の身体つきがシャープそうに見え、現役は終えてもまだまだ勝負師の迫力を失っていない人のように見えた。12.3人の受講生は、年齢が私と同じくらいか少し上の人たちばかりで、穏やかそうな印象を受けた。2時間のうち初め30分ほどは序盤の布石や定石の変化図を、先生が大盤で解説するのをボケーっと拝聴し、それから、碁盤を前列5.6人後列5.6人とずらりと並べて、先生が1人に数手ずつ打って行くという方法で講座は行われていた。 これならば、受講生がどんな棋力でも全く問題ないし、私が直接打ってもらう事も可能だと納得して3ヶ月の料金を支払った。
  「私が打っているのを横でみていなさい。」
 初めにこう言われていたので、自分の順番が来るまで他の人の対局を拝見させてもらって驚いた。前列が打っている間、後列の人たちは部屋の後ろの方で落盤を打って遊んでいる。前列の人たちは2回り打ってもらうとさっさと片付けて帰ってしまう。先生の打ち碁を見ているのは2.3人という有様なんだ。
 それよりもっと驚いたのは、受講生が一手打つと、
「ああ、そりゃ駄目駄目。ここを打ちなさい。こうなって、ああなって、こうなるから白が困るでしょう。」
などと言って、ほとんど先生が1人で打って、1人で「ああ、困った。」なんて言って進んで行く。初め私は、「何だこりゃあ、碁じゃないやんか。」と思ったけれど、受講生の棋力がが10級から5級程度であるのに初めに石を置いてハンデをつける事もしていない。つまりは指導碁にすらなっていないと言えることが分かって納得した。
 そう思って見ると、私にはなかなか面白い。石の筋・形が随所に出てくる。
「アマ4.5段でも、こんな風に打っている。」
『ああ、オレならそう打つよな。』
「この石の急所はここなんだ。ここに打たれると、こんな風になる。」
『急所は分かるけれど、崩し方が見事だねえ。』
 並べては崩し、並べては崩し。実際に打っている人がどの程度分かるか怪しいものだが、私にとってはこれまでの想像も付かないような手が飛び出すこともあって、実に楽しく黙って横から眺めさせてもらっている。
 ところで、習い始めてからのネット碁の戦績は悲惨なものだ。きっとそうなるのじゃないだろうかと予想はしていたけれど、予想をはるかに越える負け方を続けている。しかし、これが何故なのかが難しい。何故予想出来たかをいうのも難しい。あえて言えば、アマチュアとプロとの根本的な差ではないかという気がする。先生の言っていることは分かる、石の善悪も自分で判断できる。しかし、実践で使えるようになるのはいつになるか想像もつかない。この点で言えば、アマの5級もアマの6段も大差ないようにさえ感じる。
 それでも最近、日曜日のプロの対局を見ていて、
「ああ、これはプロの感覚だ。」
と思える手が見えることがある。これまでなら当然の一手と思える手に、その背景や石の形が見えるからだろうか。しかし、それは自分のネット碁でも同じ事が言える。相手の意図や筋がどんどん見えて来ると、これまでの読みと度胸だけでは打てなくなる。今は、そんな時期を彷徨っているのかもしれない。
 先日、これから3か月分の受講料を支払って継続を更新した。習えば習うほど混乱するような気もするけれど、大好きな碁がもう少し強くなるための避けることの出来ない通り道のような気もする。
 「ネットで7段になりたい」という気持ちだけが今の私を支えているようだ。
ヤフーとNTT 2004.8.22
 プロバイダーをヤフーに変えてどれくらい過ぎるだろう。此の間、ずっと調子が悪い。パンダネットで碁を打っていて電話が鳴ると碁の回線が切れて、時間に追われている時には青くなる。また、女房からは電話中に外線が入ると、今話している人との回線がなんの断りもなく切れると聞いていた。先日、目の前で電話の切れる場面を見て何とかせなならんと思い、重い腰を上げた。

 まずは、ヤフーのカスタマーサポートセンターに電話を入れた。例の長たらしい回線案内をたどって、しばらく待たされて相手が出た。それから本人確認とかで、カスタマーIDを教えろだの電話をかけ直すだの、スッタモンダデ、また無駄な時間が過ぎていった。やっと本題の入って症状を告げると、調査をするから暫し待てという。2分3分という空虚な時間が過ぎる。それから、モデムのランプのどれが点灯しているとか、電話着信時のどうなるかなどタップリ調べて、電話の相手は簡単にノタモウた。
 「どうやらタクナイ環境に問題があるようです。少しお聞きしていいでしょうか。」
 「タクナイ環境ってなんじゃい?」
 「自宅の電話機が置かれている環境について調査したいのですが宜しいでしょうか。」
 「おお、そういうことか、ええよ。」
 「ご自宅は一戸建てでしょうか、それとも。。」
 「おう、マンションじゃ、文句あっか。」
 「スカパーなどのケーブル回線はご利用されていますか。」
 「わしゃ、映画を見る時間があったら碁を打っているんじゃ。」
 「セキュリティーについて。。。。
 私は、それなりに原始的な生活をしているので、電話回線が単純で分かりやすい方だったように思う。それでもセキュリティーと都市ガスの緊急通知とオートロックシステムについて、私の電話回線が使われていないかどうかそれぞれ調べて欲しいと言われ、しぶしぶ承諾して電話を切った。
 
 普通なら、この辺で諦めてうやむやにするところだが、この日は妙に腹立たしく、おっし行ける所まで行っちゃるぞという気になった。日を替えてガス会社に電話をしたが、担当者に行き着くまでが一苦労、それから話の内容を説明するのがふた苦労。次に今度は、このマンションを作った建設会社に電話してセキュリティーやオートロックについてご教授をたまわる。いやあ、へとへとになった。ただ、先方もこの手のクレームが多いと漏らしていた。
 さあ、改めてヤフーに電話だ。回線案内を聞き、タップリ待たされて。やっと相手にめぐり合ったらまたまた『本人確認』。ここまでは、まあ覚悟の上だが、今回の経緯をほとんど全部説明しなくてはならない。前回のヤツと喋りたいと言ったら、グジュグジュと分かったような分からんような理屈を並べるから諦めた。やっと振り出しに戻って、私の電話回線には何の問題もなさそうだと分かると、先方はおもむろに口を開いた。
 「それではモデムを替えましょう。」
ちょっと待て。モデムを替えるって、あれか?。この配線をまた全部取り替えるって事か?。勘弁してくれよ。。。。

 普通なら、この辺で諦めてうやむやにするところだが。。。あれ、どっかで書いた。もうこうなったら後には引けん。おうおう、矢でも鉄砲でも持って来いってんだ、ってな訳で、それから3日して佐川急便がモデムを届けに来た。タップリ時間のある日を選んで、回線接続をし、やっとそれなりの繋がってヤフーに電話をする。もういらいらのピークだ。例の如く、回線案内・本人確認・内容説明。へとへとに疲れた頃、新しいモデムで回線チャックをする。何度もたっぷり電話をかけたりかけられたりしてから、
 「新しい回線でも、全く改善していませんねえ。」
 電話の向こうは事もなげに言う。
 「それでは、保安器の問題かもしれません。大変申し訳ありませんが、お客様のほうでNTTに電話をして、使われている保安器が『6pt-tipe1』であるかどうかを確認していただいてから、もう一度お電話ください。」
 またまた新しい難題だ。だいたい保安器が、何たるもので何処に付いていてどんな役割で誰の持ち物なのか、
何にも知らない。しかし、3回ヤフーに電話をしてあちこちたくさん電話をして、やっとここまで真理に近づいた気がして、もうこのままでは引き下がれないという気持ちがわいていた。「分かった」と言って受話器を置いた。

 予想通り、NTTの対応は悲惨なものだった。116番では何のことかも分からないから113番にしろという。113番は、こちらは担当外だから分からないという。如何したらいいかとシツコク食い下がったら、116番に聞けという。もう支離滅裂の極みだ。「アホか!」というと、改めて向こうから電話をよこすと言って、一方的に電話は切れた。
 もうこれで終わりかなと思っていたら、10分ほどして電話がなり、落ち着いた大人の声がNTTの116からの連絡で電話をしたとの事だった。
 「おお、いよいよ真打ちの登場か。」と、こっちも緊張した。
 彼は、ここまで登りつめて来たユーザーをのらりくらりと追い返すのが役目の様だった。この手のクレームの処理をたくさん手がけていて、もううんざりしていると、その声は冷淡に響いた。
 「保安器はNTTの持ち物ですが、ここでは番号は分かりません。」
 「どうしたらわかるのですか。」
 「保安器は、ご自宅の中に置かれているので、そちらに行って調べることになります。」
 「私が調べますが、自宅のどこにあるのですか。」
 「様々ですから、はっきりとは言えません。」
 
 こんな会話が何分続いたのだろうか。やっとのことで、型番ははっきりといえないが「古い型」の保安器であること、取り替えるのならヤフーから依頼があればNTTが工事をすること、工事費用はヤフーか私の負担であることなどをやっと聞き出して、話は終わった。
 「あなたは、このようなADSL回線の普及に伴うクレームの処理を担当している様だが、もっとユーザーの不満を的確に処理し解決する様に積極的に働きかけようとはしないのか。素人がここまで疑問を突き詰めるのは並大抵のことじゃないんだ。多くの人間が泣き寝入りしていることに痛みは感じないのか。」
 このような事を一方的の喋って、虚しく電話を切った。

 さて、一方のヤフーである。ヤフーだけで4回目の電話。その都度の本人確認と一からの内容説明、あまりに非効率である。あまりにユーザーを馬鹿にしていると言わざるを得ない。言葉使いこそNTTのようにゾンザイではないが、その扱い方には、「そのうちにユーザーが諦めるだろう」という意図が見え隠れする。四人目の私の相手をしたサトウクンには、もっと社内で効率よく対応する方法を検討するように依頼をしたが、果たして何時になったら反映されることやら、期待などしていない。 
 こうして、私のヤフーとNTTに対する挑戦は終末を迎えるのたが、分かったことは何にも解決していないということ。保安器は7.200円。金額の大小ではなくこれまでの経緯からして、「はい、お願いします。」という気にはならない。
 今日も電話の音を気にして、碁石をクリックしている。

「幻の古代芸能ー伎楽」NHK再放送 2004.7.19
 昨日、いつもの如く日曜昼のNHK囲碁トーナメントを見てテレビを消そうとしたら、突然、「追悼」の文字が目に入った。「あれ、二時からはいつも『宗教の時間』とかいう小難しい番組な筈だが。」と思い、誰が死んだのかと少しだけ興味を持った。しかし次の瞬間、「狂言師の野村万之丞」の文字を見て、こりゃダメだ、俺には何の興味も知識もない世界だと、またテレビを消そうとした。 私は、野村万之丞氏の名前も知らなかった。もちろん狂言なんていうのは、日本の古い芸術で変な面を被ってモタモタと動き回るモノくらいの認識だった。しかし、画面に登場してきた野村氏は若い、どう見ても40代前半だ。「こいつが死んだのか、どうして?」この思いが辛うじてテレビのスイッチを消させなかった。
 「伎楽ーギガク」。野村氏が熱を入れていたものが伎楽と知っても、これまた何のことやら。ただ若くして死んだヤツが何を求めて生きていたのか、画面からこぼれて来る溌剌と何かを追求している若い芸術家のパワーに少しずつ心を動かされていった。
 伎楽とは、聖徳太子の頃に百済から伝えられた自然の豊饒な恵みに対する感謝祈願のための祭りであった仮面楽劇のことであり、平安の頃にはほとんど廃れていたらしい。彼は狂言の面のルーツを探って行くうちにこんなものに出会ったのだろうか。正倉院に当時の仮面が幾つか残されており、これを手掛かりにして、モンゴル、中国少数民族地域、上海、インドなどのアジア各地を探し回って
伎楽がいかなる物であったかを掘り起こして行くという、なんとも壮大な企画であると分かった頃には、番組が始まって30分以上も過ぎていた。
 この文章は、番組を見終わってから改めてインターネットをあちこち検索をして書いているのは言うまでもないが、野村氏の足跡を追いかけてみて、彼の芸能に対する数々の挑戦に驚きを隠しえない。怪談狂言「耳なし芳一」の企画・上演、「田楽」の採掘、出雲阿国の「阿国歌舞伎」を復元上演などなど、歴史に名を残す芸能の数々に現代の風を引き込む作業は、いち個人が取り組む限界をはるかに超えているいるように思える。
 野村氏は、2001年10月、東京都庁広場にて、それまで調べ発掘してきた伎楽を現代の世界の若手芸術家に呼びかけて「真伎楽」として発表上演していく。そのくだりがこの番組のメインテーマだったのだろうが、私はもう、じっくりと椅子に座って見ていられるような状態ではなかった。「治道(ちどう)」、「迦桜羅(かるら)」、「崑崙(こんろん)」など10種類以上の面が表情豊かに織り成す舞台劇は、これまで見たこともない薫り高い芸術の世界を作り出していた。
 この4月に体調不良のため検査入院。6月10日、神経内分泌がんのため東京都内の病院で亡くなった。44歳だったという。
                                             http://www.tmdnet.tv/main.asp
夢 bQ  2004.6.27
 もうすぐ52歳になろうとしている。ずいぶん長いこと生きてきたような気がする。音楽に明け暮れた20代は悪くはなかった。てんやわんやだった30代も思い返せばいい思い出になった。稼ぎまくった40代は自信になった。
 そして、今。囲碁・卓球・インターネット・ベランダガーデニング・畑・果樹園・フォークギターとうたなどの趣味とそれなりに満足できる仕事に囲まれて充実した日々を送っている。人は多趣味で羨ましいなどと言ってくれるが、拘って生きて来たらいつの間にかこれだけの趣味が残っていただけの事で、自分的にはどれも捨てがたいもばかりだ。強いて言えば、これだけの事をそれなりにこなしていける時間が持てるのはありがたいと思っている。それは仕事が夕方からの短い時間で済む特殊性によるものだろう。
 しかし、これらの趣味は元々60歳の仕事をリタイアした後の生きがいとして予定していたものの筈だった。早めに始めておけば、その頃にはちょうど良く熟成されているだろうと踏んでいた。最近はテレビなどでも盛んに退職後の第二の人生について報じている。それで、あれこれ見繕っているうちにこんなことになってしまった。ところが、始めるのが早すぎたのか、生来の飽き性が出て来たのか、どうにもこれだけでは満足できない燻ったものを抱えながら、「ああ、俺の人生もしたいことはしていまったか。」などと嘯いていた。
 「キャンピングカーの気侭な旅」。熟年夫婦が礼文島や沖縄の「キャンピングサイトで談笑している画面を何処かで見た。行きたい所に行き、見たいものを見、したいことする。「ああ、これこそが俺の求めているモノではないだろうか」徐々に頭の中で構想が(いや妄想かもしれない)広がるのを止めることは出来なかった。富士山の裾野に車を止めて、さかさ富士でも眺めて写真を撮りたい。八ヶ岳の山麓に車を止めて、さださんの『八ヶ岳に立つ野ウサギ』を歌ってみたい。越中 おわら風の盆 に出かけて行って、朝まで街中を歩いてみたい。いやいや、実は何でもいいんだ。その辺の露天風呂の前に車を横付けして風呂には入れればいいんだ。見た事のないものに出あって感動できればいいんだ。知 らない町に行ってみたいだけなんだ。
 早い話、具体的な計画など何も出来ちゃいないけれど、今は本気で「キャンピングカーの気侭な旅」を実現したいと思っている。今の趣味と折り合いを付けながら、徐々に計画を実現させる方向で組んでいこうと思う。差し当たり、来年には横浜の専門店に出向いて、お車の勉強から始めようと思う。

ミカン農家 2003.12.17
 私が無料で借りているこの果樹園は、20年程前までは立派にミカンの収穫で生計を立てているミカン農家の物だった。この人の二人の息子の代になり、どちらも農家を継がなかったためにミカン山は放棄されて荒れ放題になってしまっていた。近年、こうして放棄されるミカン山が後を断たないと言われている。

 私の山の東側の斜面に、直接視野には入ってこないので日頃忘れがちなのだが、一軒の小さな農家がある。ちょっと見た感じでは空家ではないかと思われるその家に、どうやら男の人が住んでいると気がついたのはそんなに以前の事ではない。今年の二月、この辺りでも流石に寒く斜面がシャーベット状態で農作業をするにはかなり辛い頃に、私は、カイガラムシ退治の為に欠かすことの出来ない農薬散布をしようとしていた。下見に斜面を歩いていると、左上の方からその男の人がぞんざいに手招きしているのに気がついた。この寒くて忙しい時に何の用かと、すべる斜面にイライラしながら上っていった。
「ここの人かね。」
「ええ、ここを借りて果樹園をさせてもらっています。」
60歳はかなり越えているが、70歳にまでは届いていなさそうなその男性は、挨拶も抜きで言葉を続けた。
「ここを見なさい。かなり出ているだろう。」
彼は、果樹園の境界線を手刀で縦に切るような動作をしながら、大きく育ってしまっている私の敷地にあるミカンの木の枝が越境している事に抗議をしているのだった。
「ああ、すみません。気がつきませんでした。切っておきます。」
確かに、枝は長いもので1メートルほども出ていただろうか。しかし、向うの200坪もあろうと思う斜面は全くの荒れ放題、ところどころに数本の伊予柑が立っているだけなんだ。雑草だって年に一回強い除草剤を撒いて枯らしているだけじゃないか。ひどい嫌がらせをするものだ。私は、田舎の人の情は濃いという話も相手によりけりかと、寒々しい思いを心に残していた。

 それ以来、この男の人が時折りこちらをじっと見ていることに気がついてはいたが、よほど近くに寄ったときは私の方から挨拶をする程度で、できるだけお近づきにならないように気をつけていた。3月の剪定の時にその方面の枝はバシバシに切ったからよもや何かを言われる筋合いじゃないとは思っていたが、これ以上、嫌な思いはしたくなかった。

 11月、収穫でミカン山を這いずり回っている時、その男がこちらを見ていて目が合ってしまった。
「こんにちは。」
それなりに大きな声で言ったつもりだった。すると、少しの間があって、彼はするするとこちらに近づいて来た。
「何かな?耳が遠なってな。」
私は作業を止めて、心なしか身構えた。
「鋏を見せてごらん。」
「ええ、どうぞ」
「これじゃ、うまく収穫ができんじゃろ。」
「いいえ、そんなことは。。。」
確かに、100円ショップの花用のはさみじゃ能率が悪いなあとは思っていたのだが。
「おんし、素人かな。」
「ええ、まだ3年目です。」
相変わらずとっ突きにくいなあと思っていると、
「どれ、少し待っていなさい。」
突然に彼は、すたすたと家の中に入っていってしまった。
2分3分、どうにも間の取れない時間が過ぎた頃、彼は箱に入ったいかにも大切そうに保存されている一本の小さな鋏と大きな肩から掛ける収穫袋を持って現れた。
「わしは、数年前まで、その道の奥の方でミカン農家をしておったのじゃが、体を壊してのぅ、今じゃ自分が食べるほどしかつくっちょらん。ミカンの収穫はこのはさみですると良いのじゃ。こうして切るのじゃ。」鋏に付いている紐を器用に小指に巻きつけ、少し離れたところにあるまた熟していない伊予柑に近づき、ひとつをヘタのつけ根からスパッと切った。
「これを貸してやるけん、使ってみぃ。」

 正直、私は驚いた。
私が収穫したミカンをいちいちポケットに入れ込んでいるのも先刻ご承知で、親切にも収穫袋まで用意をして、朴訥にその使い方まで教えてくださった。まだ酸っぱいはずの伊予柑を頬張りながら、このあたりのミカンの味について噛みしめるように語っていた。
「重信川からこっち方面の土壌は和泉砂岩といって、ミカンを作るにはあまり適していないのじゃ。ここでは、八幡浜や真穴のように採ってすぐに甘いミカンは作ることができない。どうしても酸味が強うてな。土が違うのじゃ。じゃが、ここのミカンは保存が利く。いま収穫したものやと年明けくらいに旨味が出るかのう。晩生の温州ミカンの甘味は格別じゃからのう。」
 3年の経験で、少しずつ気がついてきたここのミカンの特性を、理路整然と聞いたのは初めてのことだった。また、私がおぼろげにここのミカンに抱いていた特色が一気に明快なものへと変わった瞬間でもあった。

 「勉強になりました。」
貸してくれるという鋏と袋は丁重にお断りをしながら、深々とお礼を申し上げた。ふと見ると、境界線のこちら側に小さなミカンの苗が十数本、しっかりと植えられているのが目に入った。考えてみれば、あれは2月の頃。3月に私が木を剪定するには丁度いい季節。また、4月に新しい苗を植えるとすれば。。。あれは全てが彼の経験の中にあった言葉だったに違いないと思うと、改めて素人の知恵の浅はかさを恥じるばかりである。

 ミカン農家が食べられるような政策がほしい。
牝  猫 2003.8.12
 昨日は、先日の台風10号以来の果樹園に行ってみた。およその覚悟はしていたが、やはり、ひ弱に作ってある葡萄の棚が半壊状態だった。少しずつ重くなる葡萄の蔓を見ながら、いつかは根本的に対策を考えなくてはならないと思いながらも、面倒に任せて放っている。「しょうがない、今日はこれをやるか。」と心に決めて急場の補修に掛かった。まずは崩れた支柱を抜き、繋いでいた針金を外して初めからするのと変わらない作業になる。それでも上に乗っている葡萄の蔓を切らないようにと細心の注意が要る。あっちを固定をするとこっちが歪む、台風に煽られて曲がってしまった支柱はなかなか思い通りにはならない。
 それでも、根気良く補修は進み小一時間もして大体の形にはなった。「しばらくはこれで堪えて貰おう。」と決め、小屋から持って来たディレクターズチェアーにどっかと腰を下ろして直したばかりの葡萄棚を見上げて、ひとり悦に行っていた。
 すると、左手の道路に、猫が一匹歩いてくる。年の頃、人間なら40歳くらいになろうかという振るいつきたくなるような美形の牝猫である(と勝手に思う)。この猫が、スラッとした長い四肢をゆったりと左右に動かしてこちらに歩いてきたが、私から10メートルくらい離れたところまで来ると、道の真ん中でゆっくりと腰を下ろし、私の方をじっと見て動かなくなった。
 私は、葡萄棚から毀れる風に身を任せ深く曇った空を見やりながら、この美しい牝猫の肢体や表情を見るともなくぼんやりと眺め、「ああ、こいつはここを通り抜けたいのだが、オレがどう出るか心配なんだろう。」なんて事を考えていた。時間にして5分くらいが経過しただろうか。私は猫を見るでもなく空を見るでもなく相変わらずぼんやりとそれまでの疲れの中に浸っていた。先方も決して注意力を緩めることなく、それでも右を見、左を見て、ゆっくりとした時間を楽しんでいるように見えた。
 そういえば、先日も厳つい雄猫がここを通り過ぎた。ヤツもなかなかに壮観でいい男だった。この道は猫の散歩道なのか。そんな他愛のないことを考えながら、ふと、葡萄棚に最後のひと房が残っているのを思い出した。人間が盗んだのか、鳥達が昼飯にしたのか定かではないのだが、私が秋の収穫を楽しみにしていた20数房の葡萄はひと月ほど前に跡形もなく消滅していた。その時、難を逃れたたったひと房のデラウエアーが適当に色づいていたのだ。
 「あいつを食べに動いたらヤツはどう動くだろうか」頭の隅っこでそんな計算も立てながら私のからだがすっと動いた。もちろんヤツの方に目をくれたりはしない。そんな事をしたら即座に警戒するだろう。葡萄をふた粒口に入れてそっと道に目を送った。
 「やった。」 1メートルくらいしか離れていないすぐ下を、豹のように美しい肢体が悠然と歩いていく。その姿には全く警戒感がない。「俺の勝利だ。ヤツは俺を信頼した。」なんとも表現しがたい満足感が走った。そっとその後ろ姿を追いながら。
梅酒 2003.6.9
 「あっ、ない。」
 梅ノ木になっていた梅の実がない。また悪夢がよぎった。でも、どれどれと落ち着いて斜面の下の方を探したら、しっかりひとつ落ちていた。これで12個ゲット。初めての梅の収穫は3分もかからずに終了した。合計300グラム。
 「自分で育てた梅で、チョーヤの梅酒のような梅酒を造りたい。」
こんな事を考え始めたのはいったいいつの事だったろうか。しかとは思い出せないが、おそらく4年くらいは前の夏の事だったはずだ。その頃は盆栽の梅と果樹園の梅の違いすら知らなかったし、梅の実がいつ成るのかも知らなかった。だいたい、梅の花と梅の実は意識の中でつながっていなかった。最初に手がけた果樹園に蔦に覆われた梅の老木があって秋の日を浴びながら何日もかけて蔦から助け出したこともあった。今の果樹園をゲットして、まだセイタカアワダチソウが斜面全体を席巻していたときに、まるで悪魔に取り付かれたように草刈りと平行して梅ノ木を1本植えたのは3年前の春のことだった。
 梅は自家受粉しないので、一本では実がつかないなんて知ったのはその後のことだ。果樹の植付けは大体が冬でないとうまく行かないので1年待って一本、そして、去年は実の成らないベランダにあった花梅を一本植えて、少しでも受粉の足しにしようと思った。
 今年の2月には初めての人口受粉なるものも経験して、梅のエッチの手伝いをしてみた。なんとも奇妙な感覚だったが、実がついてみると良いお手伝いができたとまんざらじゃなかった。
 先日、スーパーで梅酒用の梅が1キロ580円で売っていた。この手のショックはいつもの事だが本当にがっかりさせてくれる。300グラムじゃイイトコ200円じゃないか。あの梅ノ木一本880円やぞ。俺のこれまでの苦労は200円ほどの価値しかないのか。日本の農政は間違っている・・・、 なんて事を言っても始まらない。自分で収穫した梅は小ぶりで青いが、一万円出したって買える物じゃない。自分の子供のように愛しいものだ。
 早速、980円のホワイトリカーと250円の角砂糖と680円の広口瓶を買ってきて梅酒を造った。4年かかって夢へまた一歩登った。
 でも、こいつが飲めるようになるのに最低3ヵ月。話によると1年くらいすると良い味が出てくるとか。全く、生まれた赤ん坊が幼稚園に入ってしまうくらいの月日があっという間に過ぎていってしまう、歳をとる筈だ。
盗掘 2003.4.15
 「あっ、ない。」
先日植えた「お茶の木」の写真を撮ろうとしたら、3本あるうちの1本の地面にぽっかりと小さな穴が空き、立て札が無残に近くに転がっていた。
「盗掘された。。。」
セキュリティがゼロの道路に沿った斜面に植えられた果樹など盗ろうとしたら防ぎようがないとは、日頃から思ってもいたが、初めての実体験に心は大きく動揺した。
 この御茶の木は、今年の2月中頃、朝日新聞を見ていて発見したものだ。「宇治の御茶の木、お分けします。」こんなキャッチコピーだったろうか。実際の採取したお茶と育て方を書いてある説明書つきで1000円。私はどんなものが送られてくるか半信半疑で申し込みの電話をした。
 電話口の若いお姉さんはいかにも慣れた口調で電話番号などを問いただし、いとも簡単に申し込みは終わった。たったの1000円で宝くじを買ったようなうきうきした気分でお茶の木が送られてくるのを待っていたが、待てど暮らせど何の音沙汰がない。「あれはブーックジョクだったのだろうか。」そんな事を考え、いつの間にか忘れかけていた3月の末くらいになって一枚の葉書が飛び込んだ。
「お茶の木をお申し込みのみな様へ。発送が遅くなり大変申し訳ありません。お茶の木は自然の物であり、お届けするにはあと少し時間が必要です。暫くお待ちください。」
あらあらご丁寧に、と思いながらも楽しみが先に延ばされた事でますます期待が膨らんでいた。
 そんな訳で、サランラップの箱を少し太くしたくらいの筒を受け取ったのは4月に入っていた。ピニールのポットに入り、ミズゴケでしっかり覆われているお茶の木は充分に重量感が感じられた。早速、山に持って行き、これ見よがしに一番目立つ道路わきに穴を掘り、ビニールのポットを除いて驚いた。1本だと思っていた木は3本が密植されていたのだ。ひどく得をした気分で穴を三つにして植え込んだのは言うまでもなかった。
 盗んだやつは何を考えているんだろう。
「こりゃ珍しいものを見つけた。一本失敬しよう。3本もあるんだ、一本くらいいいだろう。」
およそこんなところだろうか。しかし、あの木を自分の家の庭に植えたとして、決して自然にあったものを持って来たのではない、どんなに金額は小さくても他人の物を盗んだという後ろめたさを、あの木を見る毎に感じて行く事にはなりはしないだろうか。あの木が生長して美味しいお茶が飲めた時、彼は悔恨の涙を流すのではないだろうか。
是非、そうあってほしい。
 たかが数百円の苗木でも、そこには私の夢や希望や期待がたっぷりと詰まっていた。たかが数百円の苗木でも、そこには私の汗や労働や努力がたっぷりと詰まっていた。私は傷ついた。
 「盗まれても不思議じゃない。」という意識はどこかにあった。だから驚いたけれど、意外ではなかった。あんな人目につく場所に植えるのが間違いだとも思った。しかし、どこかで安穏と人間を信じていた。こんな山の中に悪人はいないと信じていた。ぽっかりとと空いた穴は、丁度私の心の穴に似ていた。
 しばらく人間を信じるのは難しそうだ。
さださんのコンサート 2003.3.4
 さださんのコンサートに出かけるようになってどれくらいたつのだろうか。子供が小さかった頃、どこかで彼の野外コンサートを聞いたことがあった。日頃、テレビで流れていた「精霊流し」や「関白宣言」の他に一度も聞いた事のない彼の歌がたくさん歌われていた。断片的に聞こえてくる知らない歌にも何処となく共感できるものがあって、それから折に触れて彼の歌を聴くようになったように思う。
 それに、彼は私より3ヵ月年上の4月生まれ。高校生までバイオリン弾きになるつもりで勉強していた辺りがどうも私の境遇と似ている所為だからかも知れない。彼のバイオリンがどの程度のものであったかは、最近のドラマ「精霊流し」でおおよそ見当がついたが、おそらく、普通に音楽大学に進学していればオーケストラの末席くらいでは食べて行けたのではないだろうか。自分の才能に限界を感じ、きっぱりとバイオリンを捨て普通の大学に進んだ頃の彼の心情を思うに、当時のフォークとに出会いはあまりにも自然の成り行きとも思える。
 今年の彼のコンサートは初めての二夜連続のものだった。それも構成も歌も全くの別。昨年、東京・名古屋・大阪で行った八夜連続別メニューのコンサートを焼きなおしたものだろうと想像していた。一夜目は、弦楽四重奏とオーボエ、これにピアノとパーカッションを入れただけの編成。電気楽器は何処にも存在しなかった。当然の如く、しっとりとした心の琴線を揺さぶるような、これまでの彼のコンサートでは聞いた事のない音楽が其処にはあった。二夜目は、いつもの連中がバックの騒がしい内容になったが、時間がたつに連れて両方がブレンドされてくるように思う。
 それにしても、彼の爆発的なあのエネルギーにはいつも感服してしまう。6時から9時までの3時間、全くの休憩なしで、20曲以上を歌い、ぺらぺらと飽きさせない話をし続ける。時にはギター一本の弾き語りを時にはステージを隅から隅まで歌い歩く。そんな中で、私の耳で分かった小さなミスは、たったの一つ。信じられない集中力とレベルの高さだと言うしかない。
 彼はこれまで400数十曲の歌を作ったとコンサートで言っていた。私も数えた事があるから間違いではない。30年間のコンサート生活の中で毎年13曲ずつ作ってきたという計算になる。こんな事が果たして可能なだろうか。彼は若い頃に25億円を使って映画を作って失敗し、24億円の借金をこのほど完済したと言う。おそらく、彼のコンサート活動の原動力はこの膨大な借金だったのではないか。そう思うと急に親近感を感じる。
 近年の彼の曲には普遍的な愛を歌ったもの、生きる事や命に言及したものが多くなっているように思う。アルバムあるすとろめりあの「ミスターオールディズ」という曲では「初めて早く歳を取りたい、あなたのようになりたいと思った。」と老年のミュージシャンの讃えて歌っている。おそらくは、今の彼の心境に一番近いものの一つではないだろうか。
 ここまでさださんに付き合ってきたのだから、あと何年彼が歌い続けるのか分からないけれど、精々草鞋を脱ぐまでおつき合いをしようかと思うこの頃である。
塾業の四季 2003.1.27
 後日、これを読んで懐かしく感じる時が来る事を期待して、私の仕事を書き留めてみたいという気になった。果たしてそんな時が来るかどうかも定かではないのだが、どうしてだろうか。そろそろ後ろが気になり始めたからかも知れない。
 わたしの仕事は春が勝負だ。中3生が出て行ったあと、新しい塾生がどれくらい増えるかがその一年の収入に直結する。それも桜の散る頃くらいまでに大勢は判明してしまう。だから、必死にチラシを作ったり、今いる塾生の弟や妹そして友達などを誘ってもらうようにお願いをする。チラシを新聞に入れてもこれを見てダイレクトに電話が掛かるなんて事は滅多にない。そんなにこの商売は甘くない。それでも相当な労力とお金を費やして作るのは少なからずの影響力を信じているからだ。それは、今通ってくれている塾生やその保護者、また、これまで卒塾していった子供たちや地域のお世話になっている人たちへの「若狭塾は、元気でがんばっています。」というメッセージの意味も加わっているように思う。春の講習を終え、学校が新学期を迎えると私の仕事は極端に暇になる。ここから夏休み前くらいまでは、支出が収入を超える日々が続く。資金繰りなんて言葉は私のような個人塾にはあってないようなものだが、如何に借金を作らないでこの時期を過ごすかに頭を悩ます。ほかほかと暖かくなった陽気につられて、ぼんやりとしていられる時期でもある。それでも、6月には中3生の保護者との一回目の面談をして、それなりの方向性を示す。偏差値などの資料も作る訳で、10日間くらいは脳みそをフルに使う事になる。
 梅雨が後半を迎えて蒸し暑さがピークを迎える頃になると、夏期講習の準備が始まる。7月20日までにどれくらいの塾生を迎えられるか。もうこれで年間の売上げの予想はつく。10人を越える生徒を迎える時もあったけれど、ひとり二人なんて時もあった。大きな木を見ると「首を吊るにはもってこいだ」なんて物騒な事を考えるのもこのころなんだ。世間の夏休みは私の戦場だ。朝の9時から晩の9時まで、決死の12時間授業が始まる。35度の外気も時折りもいらっしゃる台風もあまり記憶に残らない。夕方の7時から8時の頃が一番辛い。まず立てなくなる。椅子に座ると大腿部が痛くて立ち上がれないのだ。加えて声が出なくなる。かすれて声にならなくなるんだ。仕事以外のことは全く視野に入らないから、日にちの過ぎて行くことの速さは、他の頃とは全く違う。お盆に一週間くらいの休みを作っているが、後半の体力を築く事も出来ないうちに過ぎてしまうのが常だ。
 残暑の頃はしばしのゆとりの時だ。だから、その年の残暑が長かったか短かったか厳しかったか楽だったかなんてつまらない事も割と覚えている。「秋休み」なんて世間では認知されていない休みを勝手に作り出してのんびり出来るのもありがたい。受験にもまだちょろっと間がある。それでも日が短くなるこの頃は、通塾している子供にとっては一番つらい時のようだ。なんとか励まして頑張らせようとこっちも飴と鞭を駆使する事になる。12月は一年で一番忙しい。冬休みの講習の準備はかなりの労力を要するし、中3生は二回目の保護者面談。そして、受験指導も熱を帯びてくる。全体の塾生数もピークの頃で、あちこちに目配りや気配りをしているうちに毎日が過ぎていく。
 寒い冬は、受験生との戦いで過ぎていく。中3生を志望校に合格させるという作業は、何度やっても恐怖との競争だ。これで安心なんて事は決してない。その年の傾向を読み、子供の学力を正確に判断して合否を予想していく事は、経験を積めば積むほど難しい事だと知れる。「失敗は許されない、これで食べているんだから。」という意識は極度の緊張を強いる。寒さが身にしみる頃だ。私の塾は3月が新学期。この1か月のずれが辛うじて受験の圧迫を緩めてくれる。新学期を迎える準備で受験生指導は必然的にその援助できる時間が限定される。物理的な忙しさが精神的な圧迫から解放してくれているようだ。
 こうして一年間をまとめてみると、いつも忙しさに追いかけられているような気がする。教材の準備やテストの作成、月謝の請求や休みの講習の案内。面談や進路相談、チラシの作成・保護者への案内。一ヶ月サイクルのこの作業は止まる事なく永遠に続く。われながら、よくやっていると思う。
2002 秋のベランダ 2002.11.13
 私は、マンション3階のベランダで鉢物の花を咲かせるベランダガーデニングをしている。本格的に始めて4年くらいになるだろうか。ここ松山のような暖地では一年中花を咲かせることができる。これから迎える冬の最中にも元気に花を咲かせる鉢はたくさんある。北国なら夏に咲いているというクリサンセマムやビオラ・パンジーなどはこれから5月くらいまでもベランダを飾る。
 しかし、私のベランダは何故か春に咲かせるものが多い。4月頃に一斉に咲き出す花々を見るのは最大の楽しみだ。たくさんの種類の花を植え、育ててきたが、結局、私は一番初期の頃に覚えたフリージァが好きなので、この花の咲く時期に色々な他の種類の花を集めるようになったのかもしれない。
 春咲く球根類は、だいだいは10月頃に植え付ける。今年も一月ほど前に土と格闘をしながらフリージアだけで鉢が三つ、プランターを二つを作った。現在は、どの鉢も青々とした平行脈の葉が清々しく伸びている。ガーデナーは花の美しさだけを喜びはしない。花は集大成なのだ。発芽、成長、蕾、その一つ一つが喜びである。
 夏の花がすっかり勢いを失いどこか寂しく映るベランダで、発芽したばかりのムルチコーレやビオラ、去年の鉢から新しい芽を出しているラナンキュラスやリューココリーネなど、鉢の表面に微かに貼りついたゴミのような緑色に、私は歓喜する。
 急激に気温が下がるので、毎日していた水遣りはほぼ隔日になる。夏咲いた花の中で、多年草のものは越冬をさせるという楽しみも悪くない。こいつらの水遣りは一週間に一回くらいでよくなる。水を遣り過ぎで枯らしてしまう事は多い。水遣りの加減が分かればベランダガーデナーの初級は卒業できるのじゃないかと勝手に思う。「水遣り3年・・・」である。 この水遣りの時に見る植物の生長は、それが微々たる変化であっても喜びは大きい。夏にチリチリにしてしまったアジアンタムを何とか殺さずに騙し騙し育ててきたのが、この気温の低下の所為か一気に新芽が吹き出して来た。春にカイガラムシで危険な状態だったベンジャミンは、今頃になって清楚な新葉を一斉に広げている。また、去年、初めてあの煌びやかな花を咲かせたデンマークカクタスは、サボテンのような茎の頂上にクリーム色の小さな蕾をたくさんつけた。今年もあの柔らかいピンクを見ることができるのだろうか。心が躍る。

 
今年は、八月に尾道向島ランセンターで買い求めた2500円のファレノプシス(胡蝶蘭)がある。すでに花は終わっているが是非来年も咲かせたいと思う。これは冬の管理が難しく朝方の最低気温が15度以下で成長が止まり、10度以下で休眠,7℃以下で枯れると書いてある。いくら暖かい松山のマンションの室内でも、常時7度以上を維持するのは難しい。それで、以前使ったことのある簡易の温室を引っ張り出し、保温用の電球を入れて15度以上を維持することにした。1980円でサーモスタットも買い入れた。たいへんな出費である。
 ファレノプシスだけではもったいないので、アメリカンブルーやインパチェンスなどの夏に咲いていた花たちも入れてやった。すると、元気を無くしていたやつらが生き生きと新しい葉を出し新しい花を咲かせた。こういう季節はずれなことをするのは花には迷惑かもしれないが、やっている方はなかなか楽しいものだ。
 この秋は穏やかに過ぎていく。 
諸行無常 2002.9.27
 私の塾は町外れの小さなビルの一階にある。学校や生協が近いのでそれなりに人通りがある。前面の道路幅が広くて四つ角なので子供を乗せて車で乗り付けられるし、自転車も置き易い。町外れなりにちょっとしたスポットじゃないかとひとり納得している。塾は、このビルの三件並ぶテナントの真ん中にある。左はパーマ屋、右はクリーニング屋だ。
 
私の頭は、長いあいだこのパーマ屋の世話になっているし、私の着ているワイシャツやズボンは、このクリーニング屋なしには着る事が出来ない。逆に、ウチの塾生のM君はパーマ屋の紹介だし、高校生の可愛いYさんはクリーニング屋の紹介なんだ。つまり、お互いに持ちつ持たれつ助け合って、足引っ張りあって生きているんだ。

 
このクリーニング屋のW氏は、私より5.6歳若いくらいだろうか、穏やかで生真面目そうで、いつも女性客が長いこと店のカウンターから離れないような好人物だ。聞き上手で、こっちの馬鹿話をニコニコと相槌を打ちながらいつまでも聞いていてくれる奴なんだ。
 そんなW氏が数日前からいなくなった。最近、店を途中で空けることが多く、
「集配に出ています。」
という張り紙の貼られていることが多くなっていた。
「店でお客さんを待っているより、自分からルートを決めて集配に出る方がたくさん集められる。」
と彼は言っていたが、それにしても、4日も5日も張り紙が貼られたままになっているのは、幾等なんでも不自然なことだった。
 何人かの急ぎのクリーニングを取りに来たお客さんが困って、私の店のドアを開けるようになった頃、パーマ屋が言った。
「今日、クリーニング屋の本社から電話があったけど、どうやら本社もWさんを探しているようだ。」
 本社も行き先を知らないというのはどういうことだ。「逃げた」ということか。一気に不安が増幅した。

 次の日、臨時に本社から人が来て店は一応開いた。待ちくたびれていたお客さんが次々と来た。私もやっと着る物にありつけてほっと胸をなで下ろした。
「一体どうなっているんだ。ヤツは何処に行ったんだ。」
 私は、不安を感じながらもまだ冷静だった。
そして、それは夕方の4時を回った頃だった。
パーマ屋が静かにドアを開けて入って来た。目が異様だった。
「し・・」
 私には、「し」だけしか聞こえなかったが、彼の口が「死んだ」と動いたのをはっきりと見て取った。重信の山中で自殺したと警察から連絡が入ったらしい。まるでテレビドラマを見ているような錯覚に陥った。 パーマ屋は今聞いてきた情報を詳しく教えてくれているのだが、オレは全く耳に入らず、ふらふらとひとり近くの駐車場の方に行き、コンクリートブロックに座って、頭を抱えて考え込んでしまった。
 俺たち自営業者はみんな苦しい経営をしている。俺だって一歩間違ったら、いつ食えなくなるか分かったもんじゃない。そんな事、オレらは当然な事だと分かってはいるけれど、まさかヤツがそこまで追い詰められていたとは知らなかった。
「何も死ななくたって。。」
 いや、これは単なる俺の勝手な推測であって、ヤツが自殺を選んだ理由は他にあるのかもしれないが、私の耳に真実が聞こえて来るわけもないし、聞いてみたとて仕様もない話だ。しかし、そんなに間違ってはいないだろうと思う。

 W氏が、唯一雄弁に語っていたひとり息子は今頃どうしているだろうか、残された奥さんはどうしているだろうか。悲しみはまだまだ暫くは続くだろう。気掛かりだか何にも出来ない。しかし、どうやら店は本社が引き続き直営店として継続することで決まったようだ。
 今日も、窓ガラスの向こうに彼がいるような気がしてそっと見てみる。しかし、そこには知らない別の顔があるだけだった。

昇段 2002.826
 私は、パンダネットと呼ばれるネット碁で毎日碁を打っている。ここで打ち始めてすでにまる4年が過ぎようとしている。町の碁会所で打つよりも良い点はたくさんある。例えば、対局相手に際限がない事があげられる。町の碁会所ではなかなか見つけられない碁敵も、ひとたびネットを開ければ、20〜30の同じくらいの棋力の人がてぐすね惹いて待っている。また、持ち時間がはっきりしているのも魅力だ。対局前に25手を10分で打つのか、5分か、いやいや15分なのか、前もって打ち合わせをし納得して打つから、少々長考されても腹も立たないし、こちらも安心して長考が出来る。
 ところが、すでに1000局を遥かに越えるだけ打ってみて最近気づいた事がある。それは昇段のシステムがどうも妙な事だ。私ら素人の一般常識では一勝一敗で五分、二勝一敗のペースならならどう考えても好調だ考える。ところが、ここのネットはそうではないらしい。

 「レーティングについては、アルゴリズム(計算手順)は、アメリカの大学で数学と統計学を専門とする教授によって考案されたものです。正直なところ詳細な部分までは当方も把握いたしておりませんが、持ち点の制度によって棋力を決定しております。」
 パンダネットに問い合わせたところ、この様な、なんとも木で鼻を括ったような返答を受け取った。

 私は、半年ほど前に五段と六段の間を何度も上がったり落ちたりを繰り返した。毎日、薄氷を踏む思いで今日は何段になっているかを見たものだった。
そうして分かった事は二勝一敗でほぼ現状を維持できるという事だ。当時は、「仕方がない。それならば三勝一敗のペースで打ってやる。」と必死の覚悟で打ち続けた。そして、何とか六段を定着させたある日、いつものようにパンダネットを開けて仰天するほど驚いた。
 七段になっていたのだ。
 
「調査の結果、巷のレーティングとパンダネットのレーティングに大きな開きが生じてきましたので、本日から全員を一段ずつ昇段させます。」と、こんな内容だった。

 突然の「七段」。この想像もした事のない段位に初めは驚き喜んだ。そして、この七段という地位をキープしたいと意気込んだ。しかし、棚から牡丹餅のような、降って沸いたようなおいしい話はそう長続きはしない。そうなんだ、気力が続かないんだ。
 いつしか六段に落ち、それから83勝58敗。七段復帰には34勝もしなくてはならない。負けても、「六段を維持できているのなら本望だ」と自分自身のどこかで認めてしまっている。負け犬根性が身につき始めたかと思える。
 それにしても、二勝一敗のペースで五分という基準は厳しい。負けると大きなプレッシャーが掛かり、伸び伸びと打てなくなったように思う。二連敗などしようものなら目の前が真っ暗になる。アマチュアの段位に何をそんなに拘るのかとも思う。たかが趣味ではないかとも思う。しかし、真剣に強くなりたいと願う気持ちに嘘はない。

 フェアーでないと感じた瞬間からまたプレッシャーが大きく感じる。
牛丼 2002.6.15
 私の場合、昼食というのは実に中途半端なものだ。忙しくなると食べない事もよくある。朝を抜いたときはたっぷり必要なときもある。朝が遅い分、当然昼もずれ込む。1時、時には2時を周ってから、さて今日は何を食べようかという事になるのが普通だ。
 何時の間にやら、昼食に通う店は多くなった。カツ定食が480円でご飯のお代わりがタダの店とか、日替わりの中華定食が600円でうまいコーヒーがついてくる店などもある。ラーメン屋うどん屋そば屋、そして、カレーライス屋などは必需品だ。
 そんな中で、最近よく通うのが「吉野家」。全国チェーン店の牛丼屋だ。とにかく安い。並盛が280円は、デフレの今の世の中でも破格といえる。
「今日はそんなにしっかり食べたくないなぁ。でも、何か入れとかないと夜まではキツイなぁ。」
こんな時は、吉野家だ。
 この価格で吉野家は売上げを伸ばしていると聞いている。確かにうなずけることはある。一時半に入ったとき、何時もの店は20席以上ある席は殆ど満席。辛うじて空いていた一人掛けの椅子に座ると、間髪を入れず注文を取りに来る。店員は外に二人、中に二人。おそらくは全員アルバイトだろう。私の注文は大きな声で復唱され、レシートはない。10秒と待たずに並盛の牛丼が出てくるのには、何度行っても驚く。
 味はもちろん悪くはない。牛肉もたっぷり入っている。こういうところでケチらないのが、プロなんだろう。しかし、量は多くない。この少な目の量が魅力なのだが。たくさん食べたければ、大盛を頼めばいい。「特盛」なんてのもある。
 客は、どんどん入れ替わる。言っちゃ悪いが金のありそうな奴はいない(オレもその一人か)。学生か、フリーターか、それとも失業中の身か。案外、隣のパチンコ屋でスッテンテンになったヤツもいるかもしれない。そんな景気の悪そうな奴らが次から次に入ってくる。「全く、世の中にはこんなに金のない奴がたくさんいるのか」と思う。
 世の中の狂牛病騒ぎも此処では何の関係もないように感じる。食産業の価格競争は食べる側にはありがたいが、作る側には熾烈な戦いになっているだろう。私は、学習塾を開業する時に食産業を手本とさせて頂いた。つまり、吉野家のような全国チェーンでは決して出せない暖簾の味、地元に密着したプロの味があってもいいはずだと考えた事があった。学習塾業界も全国チェーンは多い。しかし、塾が産業として新しい事や、業種として人間を相手にする事から個人塾のニーズも少なからず残っている。
 フランチャイズの牛丼を食べながら、ふとそんな事を思い出した。
2002・5・6
  昼飯を食べようと郊外のカレーライス専門店に立ち寄った。最近、あちこちに出来ているチェーン店だが、辛さが選べてトッピングが出来て米の量まで自由になるという優れもので、このところ、山に行く時にはここに世話になることが多い。
 この日は、昼を少しまわっていた所為か客も少なく閑散としている。のんびり出来てありがたいと、何時もの二人用の座席に腰を下ろした。
 ふと筋向かいの窓際に座っている女性に目が行った。
「美人だ♪」
 小さい子供三人と旦那の五人でカレーを食べに立ち寄ったのか。整った顔立ちに一重の目元が美しい曲線を描いている。また、三人の子供を生んだとは思えない若々しい体つきはまだまだ細く独身のようにさえ見える。こちら向きに座っているので見ようとしなくても、自然と視野に入る。
「こりゃ、良い目の保養になるぞ。」
晴れた午後の日差しが一際眩しく感じた。

 ふと見ると、学童前になろうとしている年子くらいの上二人の女の子が通路で遊んでいる。着ているものや髪の毛がよく整っている。
「もう食べるのを終えて、帰るところか。」
 初めはそう思ったが、どうやら違うようだ。美人な母親からカレーを一口、口に入れてもらったら、もぐもぐ食べながら通路でケンケンパーやら靴のままで椅子に登ってそこから飛んだりして遊んでいるのだ。母親は二人の女の子に交代で食べさせている。
 私が初めて目に入ったのはこの場面だったので、残ったカレーを食べさせて終わるところかとどこまでも美人には寛大な思いが先に立った。 しかし、私のカレーが来て、そして、食べ終わっても、同じような光景が目の前で繰り広げられている事で、少しずつ疑問の念が浮かび始めた。ここは、公共の場。子供がいつまでも通路で遊んでいて良い訳がない。見ればバイトのスタッフさんたちもいささか困ったよう顔をしている。そもそも子供が自分でカレーを食べずに母親が食べさせているというのはどういうことだろう、乳飲み子じゃあるまいし。
 考えてみれば、ずっと子供の歓声がさっきから絶え間なく続いている。背中しか見えない父親は、この間ずっと、三番目の子を抱いてあやしているのだが、これがまた騒がしいのだ。小さい子を強く抱きしめるから、子供は大きな奇声を発する。あやしているというよりは、自宅でするように遊んでいるといったところか。女の子の遊び声とこの奇声がずっと連続して続いているのだ。
 おいおい、ここはお前の自宅の居間じゃないぞ。

 先日、私のBBSで子育て論議があって、価値観や方法論が大きく変わってきていると話しになったばかりだったことを思い出した。この子供たちの行動を問題視するよりはこの親の非常識を問題視するべきだと痛感した。 いったい誰がこの親を育てるのだろう。外見だけ着飾って美しくても、子供を育てるイロハも分かっていない親は意外と多いのかもしれない。
 この親子が出て行った後、スタッフがテーブルの下にまでもぐり込んでご飯粒を拾い、丁寧に片付けをしていた姿が目に焼きつく。これからの時代、こういう光景を目にする事が多くなるのかと、暗然とした気分で店を出た。

ベンジャミン 2002・5・2
  観葉植物のベンジャミンが新芽を出していないと気がついていたのはいつ頃からだったろうか。2月だったか、3月だったか。「その内に芽を出すだろう。」と軽い気持ちでベランダの隅の方に放って置いたまま忘れてしまっていた。ところが今日、何時ものように水遣りをしていて、ふとベンジャミンに目が行った。
「そう言えば、こいつ、いつまで経っても目を出さないなぁ。」
よく見ると葉はところどころがススけて汚く、新芽の「新」の姿もない。幹の其処此処に小豆大の茶色の虫?のようなものがひっついている。しかし、全く動きはしない。
一体こいつは何だろう。

 このベンジャミンは我が家に来て5年目になる。我が家の植物の中でも古参に属する方だ。新しく分譲のマンションに入ることになって、知人が新築祝いに贈ってくれた物だ。娘がいた頃には娘の部屋に置かれていて、受験勉強で苦しんでいた娘を随分なぐさめていたようだ。娘は今でも帰省すると、「ベンジャミンちゃん、元気?」などと話し掛けている。例年であれば、春も今ころになれば一斉に新芽を吹き出し豊かな緑の葉を茂らせてくれるのだが。

 果樹園の果樹たちを育てている中で分かったことに、植物には害虫や雑菌による病気が予想以上に多いという事だ。こいつも何が病気になっているのかもしれない。私はふと思いついた。先日買った「庭木の病気と害虫」という本が(2.400円もした)あることを思い出して、ぱらりばらりとページをめくって見た。


「カイガラムシ」

虫の形、大きさ、体色は千差万別で、
同じ虫とは信じられないくらい多種多様である。
体の表面がロウ状で球状に盛り上がり表面がやや硬くなっている。
油滴状物を排泄し、これにすす病菌が寄生するため
葉はすすを塗ったように黒くなる。

幼虫はどこか適当なところに定着すると足は退化して歩行できなくなり
再び移動することはない。 米山伸吾著

 カイガラムシについては蜜柑で知っていたけれど、日頃蜜柑で闘っているカイガラムシは白くてごそごそ動いている。ホタテ貝を小さくしたような形をしているからこの名があるのだろうと勝手に思っていた。しかし、今目の前にいて枝にこびりついている鼻糞の親玉みたいな奴をカイガラムシだと言われてもにわかには信じられない気持ちだ。

 そうは思っても、ここまでピッタリとものの本と適合していてはそのまま信じざるを得ない。まずは全部削ぎ落とすのが一番良いとの事で、鋏の背中を使って100匹いたのか200匹いたのかは分からないがゴシゴシとひとつひとつ削いでやった。鉢を少しずつ回しながら様々な角度からじっと見る。何度も回している内にどんどん鉢は綺麗になっていった。終わりの頃には、ベンジャミンが喜んでいるように見えたのはもちろん気のせいなんだろう。

 カイガラムシがいなくなったからと言って、この後、ベンジャミンが新芽を吹き出すかどうか分からない。暫くは目が離せない状態が続く。

山小屋製作 その2 2002.2.19
 山小屋が完成して一ヶ月ほどが過ぎた。
 当初の虚脱感からやっと抜け出だ感じがする。この山小屋製作が半年もの間プライベートな時間と心の大半を占めていたことを、全てが終わってみて初めて実感するという間の抜けた結末もまた予想に反する事だった。
 それにしても、あの11月12月はやはり辛かった。屋根を取り付けて外壁を貼り終えるともう出来上がった気分になってしまった。
「もう、これくらいで良いのじゃないか。」そう囁く自分を持て余していた。
「いやいや、ここまで頑張ったんだ。仕上げまでしっかりやろう。」
こう言い聞かせても、なかなか気持ちは上向いてこない。それに仕事が一向に進まないのだ。内壁に採寸しながらベニヤ板を貼り付けていくのだが一日やって小さいのが3・4枚も出来るかどうか。折角作っても少し寸法より大きいと入らないし、小さいと隙間が出来てしまう。放り出したくなる気持ちをなだめながら一枚また一枚と貼り付けていった。
 加えて、この時期は蜜柑の収穫に重なった。初めての収穫は最初のうちこそ喜々としてやっていたが、5箱6箱と収穫しているうちに、一体どれくらい続くのだろうと減って行かないオレンジの丸い玉を恨めしく思うようになってきた。ひと箱の収穫に二時間位はかかる。一日中やってもたいして多くは出来ない。それに、これを知人友人に送る作業がある。初めは何にも知らないものだから取ったままを箱に詰めて送ってしまったが、あれは一度外側を水で洗ったり拭いたりして奇麗にしてやるものらしい。どんどん溜まってくる蜜柑トレイの山に恐怖すら感じた事もある。結局、15・16ケースも収穫しただろうか。大変な労働になってしまった。やはり、摘果をしっかりやって小さい蜜柑は早目に排除する事、剪定をしっかりして収穫しやすい木を作る事、害虫からの防除をきちんとして奇麗な蜜柑を作る事が如何に大切かを学んだ。
 さて、そんな中でも、一枚また一枚と貼り付けていたベニヤ板が内壁を埋めていき、少しずつ居住空間が広がってきた。急きょ変更した屋根裏部屋の作成も予想していたよりも上手くいってだんだん調子が乗ってきた。同時にやっていたテラスの床張りも採寸には苦労したが慣れてきた所為もあるのか順調に出来上がった。
 慣れると恐ろしい経験もする。電気カンナはとても便利な道具だ。特にべニア板の細かい寸法を合わせる作業などにはなくてはならない。30センチ以上もある大きいものは危険は少ない。5センチ以下くらいの小さいものは注意を払うので事故にはならない。
 その時は10センチくらいの中途半端な材料だった。左手にベニアをもった。思えば中指が余った。右手のカンナのスイッチを入れた。ふっと近づけた時、高速回転の歯がその余っていた中指を直撃してしまった。なんとも言えない鈍い衝撃が中指の指紋の真ん中あたりを刺激し、短い地震波のような不快な振動が中指から全身に広がったような気がした。
「やった。」
反射的にベニヤもカンナも床に落として中指を見た。幸いに表皮が薄く削られて血がにじんていたが大事には至らなかった。全身の力が抜けていくのが分かった。しばらくの間、椅子に座って薄くくすんで見える夕焼け空をぼんやり眺めていた。
 さて、最後は雨樋と水瓶だ。この山小屋製作の最初の目的の一つに水の確保があった。人造池はすぐ上にも下にもあるのだが、水汲みにそう何度も往復できる距離ではない。果樹に必要な水を確保する事が大切なんだ。雨樋は去年の前の山小屋の補修の経験があった。必要な材料を揃え一気に作り終えた。水瓶はこの山を案内してもらった時に隅の方に放置してあった昔の五右衛門風呂を利用する予定にしていた。半日もかからず終わってしまった。終わってしまうと、急にもうする事がないことに気づいた。掃除くらいしかないのである。
 先日、水瓶に貯まった水を果樹にかけてやった。寒い日だった。ずっと乾燥していたのでこいつらも喜ぶだろうと思って二瓶全部かけてやった。これから何度こうして水遣りをするか分からないが、山小屋がこの果樹園のベースキャンプである事をはじめて認識した瞬間だったかも知れない。
ホームページ開設一周年 2001.11.14
 日頃、てっちゃんの「まっ、どうでもいいけど」に足を運んでくださっておられる皆様、遠路はるばる有難うございます。この度、開設一周年をお祝いしまして、また雑文を掲載いたしますので、適当に読んでやって下さいませ。

 振り返れば、あれは、かれこれ4年以上も前の9月26日の事でした。私の仕事場にジリジリリンと電話のベルが一際けたたましく鳴りまして、
「こちらは松山税務署です。○○塾ですね。」
 私はそれまで、たいして稼いでもいないので確定申告もせずにその日暮らしをしておりました。ところが、税務署屋さんは流石はプロでございます。それはそれはとってもきちんと仕事をなさって、私がそれまでアブラ汗をしぼって蓄えたわずかばかりのキンスをしっかり全部持ち去ってくださいました。もちろん、重加算税という罰金も忘れることなく付け加えてありました。それは、ショックというより、目の前で泥棒がお仕事をなさっているような錯覚を覚えました。(叱られそう)
 以来、私は税金を少なくするための勉強を、仕事の片手間に始めました。いや、仕事を片手間に始めました。そんな中、その頃知り合った青色申告会Mさんにパソコンを薦められたのでございます。
「経理をきちんとつけるにはパソコンが良いですよ。書き直しが簡単に出来るし、決算も楽に出来ます。」
 私は、ああだこうだと、つまりワープロで充分じゃないのかとかパソコンは難しいとか、理由をつけて2時間も3時間も逃げ回りましたが、途中でふと考えが変わりました。
「もしかして、慣れたらインターネットで碁が打てるのじゃないか。。。」
 こうして、てっちゃんのパソコン人生は何時ものとおり邪念の塊からめでたく無事出発する事となったのでございます。

 経理のお勉強も、ど素人のてっちゃんには難しい事でありましたが、パソコンのお勉強ははるかにそれを上回るものでございました。クリックが出来なくて、ノートパソコンを納品してくれた業者にフリーセルを勧められました。当然、これが飽きるまでの数ヶ月はフリーセルのトリコになったのは申すまでもありません。また、500円のマージャンソフトに目がくらんで、くる日もくる日もマージャンをしていたのはいつのころの事でございましょう。インストゥールなんていう言葉を理解した頃にはどれほどの時間が過ぎていたでしょうか。。。
 もちろん、経理の勉強はいつになってもサボる事ばかり考えていましたが、囲碁の世界はあっという間に飛び込みました。仕事がら昼間しか打てなかった碁が、なかなか強い人にめぐり合えなかった碁が一変しました。仕事が終わり一服しながら、タチドコロに強い相手がゴロゴロと転がっている世界に飛び込める快感は今になっても色あせる事はありません。

 これで終わっていれば、おそらく皆様と出会う事はなかったかと思われますが、私には義姉が一人おりまして、この御方は「フルベール化粧品」の販売を生業にしております。
「お姉さま、ネットで化粧品の販売をしてみたいのですが。。。。」
 私は、何より下手くそな金儲けの相談を彼女に持ち掛けました。
「まぁ、てっちゃん。それはうまい話しだわ。やってみたら。。」
こうして、それ以来、ホームページのホの字も知らなかったてっちゃんはホームページビルダーを買い込んで怒涛のごとくに勉強するのでした。これが2年と少し前の事でした。
 約半年のあいだ、夜中も休日も連休も湯水のように時間を使ってゴソゴソとパソコンに向かい続けました。プロバイダーからパソコン本体まで買い替え、極めつけのCGIシステムを使ったショッピングバスケットまで取り付けて開業致しました。
 ところが、これが2週間もしないうちに水の泡になろうとは。。あくまでフルベール側の問題ですから私としては立ち入った事は分かりませんが、クレームがついてあっという間の崩壊が待っておりました、トホホホ。てっちゃんの努力を返せ〜〜

 しかし、こうして、傷ついた心も秋風が吹く頃になればすっかり癒えておりまして、「折角いい勉強したんだから、楽しみのホームページでも作りたい。」何て事になりました。このようにして「てっちゃんの、まぁ、どうでもいいけど!」が開設した次第でございます。

 「思えばてっちゃんは、何と辛く悲しい出来事を乗り越えてケナゲに生きている事でしょう。うーん、見直したわ。」
 そんな皆様のお声がてっちゃんの耳元に聞こえてくるのは決して気のせいではなさそうです。(謝)
山小屋製作 その1 2001.9.25
  春まだ初めの卒業式の頃にこの山と出合った。。前の山が駄目になって傷ついた心を引きずりながら、人づてに紹介してもらって初めてこの山を見たとき、どこかで前の山と比較してしまって強くときめく物がなかったのは事実だった。しかし、広い道路には面しているし風景は美しいしそれ程広くはないし、何よりすでに蜜柑の木が少しあるということでやってみようと決断をした。ここなら私が「やめたい」というまでは貸してもらえそうな事も心強かった。
 何年間も放置してあった山の斜面は雑草たちが自由を謳歌し、すっかり痩せた土地になってしまっていた。朽ち果てた小屋の残骸や誰が投棄したかわからない無数の洗濯竿やコンクリートの台が私のやる気になかなか火をつけなかった。それでも、暖かくなるまでに果物の苗木をうえつけなければ来年の春までの一年を棒に振ることになるので、さほど広くもないはずの斜面を必死に刈り続けた。
 辺り一面を覆っていた雑草を刈り、斜面を何度も上ったり降りたりしているうちに傾斜の緩やかさ、上から見る景色の美しさ、春を語る鶯の語らいなどに新しい山に対して知らず知らず強い愛着を持ち始めていた。
「朽ちた物置を壊し投棄物を廃棄して、ここに山小屋を作りたい。」
心は自然と想像を絶する山小屋の建築へと傾いていった。
 山小屋を作るといっても、私には何一つの経験もなかった。若い頃、車庫を作ったことはあった。親父さんという人が器用な人で私が子供の頃、六畳の離れをひと夏で作ったのをじっと見ていたことがあった。しかし、そんなものは経験のうちには入らない。土台の作り方、水平の取り方、壁の張り方、どれもこれも知らないことばかりだ。加えて、私は人に教えを請うのは死ぬほど苦手な人間だ。一歩の足の出し方も分からなかった。
 私は近くにある本屋に足繁く通い始めた。あまり、世話になったことのない図書館にも足を運び、初めて図書館カードなるものを手にして、神妙な面持ちで「建築」の本を借りた。しかし、どこを探しても私が夢に見るような山小屋の作り方が書いてある本には出会えなかった。素人が立てた一戸建てのマイホームの話や北国のログハウスの作り方を書いた本はあった。日曜大工で椅子を作ったり犬小屋を作ったりする方法を書いた本はたくさんあった。「どうして物置の作り方を書いた本がないんだろう。」理解できない気持ちを抱えていた時、新聞のチラシに目が行った。
 山小屋、30万円なり!
 チラシに釘づけになった。これを買って建てれば、あっという間だ。簡単で奇麗だ。こんなうまい話はないじゃないか。でも、それじゃオレのこれまでの勉強はなんだったんだ。心は揺れた。
 今更、店屋物で間に合わせるほどにやわな神経に出来ていなかった。思い入れは相当深まっていた。それで、結局は艱難辛苦の道を選んだのだが、チラシの内容は私に大きな勇気と情報を与えてくれた。そこには作りたいと思っている形も大きさも材料も全部出ていた。私は様々なチラシを読み実際に何度も足を運んで隅々まで嘗め尽くすように見て周った。ついでに、木材の長さや値段も繰りかえり繰り返し見て周った。
「出来る!」
 おぼろげながら、山小屋の輪郭が頭に浮かび始めた。
 小型のトラックを借りて、投棄されていた洗濯竿や朽ちた小屋の木材を運び出し、3寸の角材を数本買って私の山小屋作りはスタートしたが、この時、電気は通っておらず、大工道具は差し金ものこぎりすらも用意されていなかった。これから始まる労力の総量を想像するよりは出来た山小屋の姿を想像していたからこそ、こんな無謀な計画が実行できたのだろう。土を水平に慣らす作業、土を掘って束石を埋める作業、3メートルと2メートルの角材を繋ぐ作業、土台を組む作業、水平をとる作業。どれもこれも膨大な時間と汗が消費されていった。
 9月に入り、再開した作業は、まず壁を作る作業だった。一般的に在来工法は柱を立ててすぐに屋根をつけてしまう。そうすれば雨に当たらず作業が進むのである。しかし、私の工法はそうはいかない。壁は3寸の柱に溝を掘って、そこに焼き杉板を一枚ずつはめ込むようにして打ち付けるものだ。どこかのテレビでやっていたのを偶然見かけて、「これだ!」と心に決めていたものだ。屋根を決めてしまっては焼き杉がはまらなくなってしまう。残暑が厳しい中、ひとつひつとの柱に採寸してほぞ穴を彫り溝を掘って準備を重ねた。
 加えて、窓とドアをどうやって手に入れるかが難問だった。山小屋用の窓やドアは何処をどう探したってあるもんじゃない。建具屋さん(こんな言葉も知らなかったが)を何件探しても取り合ってくれなかった。2.3相手をしてくれるところはあって陳腐なドアは見つけても、窓ばかりは何処にもなかった。さすがの私も途方にくれていた。
 こんな時に知り合ったのが建築やさんのSさんだった。彼は、本業の商売の方は例のごとく胡散霧消してしまったのに、こんなど素人のたわ言を快く聞いてくれて中古の大きなサッシの窓を二つと私向きの大きな玄関ドアをしっかり用意してくださった。
 これで道具は揃った。あとは努力あるのみ。正直な話、こんなに辛いのだったらあの時店屋物の30万の小屋買ってちょいちょいと仕上げれば良かったと思わない訳ではない。まだ完成のめどは全く立たない。しかし、この充実感は何なのだろう。何をさておいても時間を作ってはいそいそと山に向かう、この心のうちはどんな構造になっているんだろう。柱が一本立ったときの喜び、焼き杉板が一枚張れたときの満足感は決してお金では買えない不変の価値が宿っている様に思う。
 「決して急がない。」と自分の心に言い聞かせている。好きでやっていることなんだ。趣味でしていることなんだ。楽しいからしていることなんだ。嫌な時にはしなければいいんだ。(続く)
2001・8・1
 かねてからチャンスがあれば自分の塾を建てたいなんて大それた事を考えていた。きっと、「男の夢」の典型的なものなのかも知れない。
 あれは5月の連休が明けたころのことだった。ウチの事務員さんがポツリと言った。
「先生。あそこの土地が『売り地』になっています。」
現在の塾の五件東側に小さな更地があって、これまで何年もの間「貸地」の看板が掛かっていた。これが売り地になったら私の夢がかなうかも知れないと日頃から思っていたところだった。(私の仕事はテリトリーが狭いので近場でしか引越しは出来ない。)
それで、驚いて看板を見に行った。確かに「売り地 ○○宅建」と、真新しい看板がデーンと空き地の真中にたっていた。まるで、私を手招きしているようだった。
 半信半疑のまま、そんなに上手くはいくはずがないという気持ちややってみなくては分からないという気持ちで、まずは日頃世話になっている銀行がなんと言うやらと電話をしてみた。
「Hさん。あの土地、どう思う?やれるもんかなぁ〜〜」
銀行のHさんは、それから非常に積極的に且つ又熱心に話を進めてくれた。まずはすぐに○○宅建との交渉してくださった。また、取引のある安くてよい家を作る建築屋さんも紹介して下さった。話はどんどん進んでいった。土地の方は、値引き交渉も順調に進み当初の予定していた金額を勝ち取ったくれた。また、上に乗せる建物の青写真も数回の打ち合わせでだんだん完璧なものが出来始めた。新しい塾舎がもう実際に出来上がったように感じるくらいに壁の色から蛍光灯の種類から玄関入り口の化粧レンガの配置まで検討は進められていった。○○宅建の方は早くにこの話を成立させたらしく、Hさんには毎日のように催促の電話が行ったらしい。
 私は、あまり順調に話が進むのですっかり気をよくしながらも、何か落ちているものがあるのじゃないかと、いろいろな知人にこの話についての意見を尋ねていた。S氏は、折角するんだったらもう少し大きい土地の方が良いのじゃないかと言ってくれたし、Mさんは、二階をアパートにするのは不都合が多いと言ってくれた。どれも見識ある意見で
その都度何がベストか時間をかけて
考えていた。しかし、夏期講習が始まれば9月まで手がつかなくなるし、そろそろ潮が満ちてきたように感じ始めて、「決断」の時がきたと思った。
 建物の完璧な青写真が出来上がるのを待って、Hさんに土地の仮契約を進めたと申し出た。あとは早い。2.3日のうちに銀行の応接室で売買契約の仮契約は○万円の手付を打って無事に終了した。本契約の日取りも決まった。
「さあ、これからが私の仕事です。」
同席してくれたHさんも自分のことのように喜んで、融資の話を進める準備を始めてくれた。

 翌日は、忘れもしない土曜日だった。日頃土曜日の午前中は仕事をしないのだが、夏の講習前で山積みになっている仕事を思い出して、朝から仕事場でごそごそしていた。すると、最近は滅多に会わないここの大家さんが何の仕事か前の道を歩いていた。私は、仮契約も終わったことだしそろそろ大家さんの耳にもここを退去する話はしておく方が良いと判断して声をかけた。
「Tさん、お久しぶりです。少し話があるんですが。。」
私の話を聞くと、すぐに彼は言葉を挟んだ。
「先生。本当に良い話なら、私はこんなこと言いません。喜んでおめでとうと言わせてもらいます。でも、先生。あの土地はよした方が良いのじゃないでしょうか。」
T氏との付き合いは10年を超える。彼の人柄は十分に理解している。そんな妙なことを言う人じゃない。
 彼の話で、この土地が10年程前に首吊り自殺のあった場所で、以来、誰も寄り付かないという曰くつきの場所だったことが、その時初めて分かった。言われてみて、ぼんくらな私でも、その昔そっち方面でそんな噂があったことは薄ぼんやりと思い出せた。私は、緊張していた糸がしゅるしゅると緩んでいくのを感じずにはいられなかった。商売で子供にきてもらう土地にそんな曰くが付いてまわったんじゃ駄目になるのは目に見えている。何もそこだけが土地でもあるまいし。。。
 
 家族、知人、S氏、Mさん、建築屋さんそしてH氏・銀行も全員が私の考えに同意してくれた。戦う相手が幽霊や噂では到底勝ち目はないのだから全く仕方のないことだと思うしかない。みなさんは、「まだまだ私に運がある。本契約の前に分かったんだから」と慰めてくれた。
それにしても、私の頭の中いつぱいに広がった新しい塾舎のイメージはいつになったら消えるのだろうか。。。

塾通信「がんばれ」から 2001・5・24
 月一度の発行で塾の新聞「がんばれ」を書いている。成績やお知らせなどを書き、ついでに、その時々の主張を私なりに書き綴ってきた。すでに104号を数えている。仕事柄、どうしても教育問題が多いのだが、今回は時事問題になった。

「ハンセン病」国が控訴断念
 今日の朝日新聞のトップの見出しです。一昨日、もし国が控訴をしないようなことがあったら小泉内閣は本当に素晴らしいのだが、と朝食の時間に女房と話をしていました。その時は、熊本地裁判決には法律上の問題点があるとかいって、官僚主導で控訴に傾いていました。
 以前は「らい病」として恐れられていたこの病気は、私たちが子供の頃は伝染病として広く知られていました。特に、手や顔などがひどく変形して醜くなることから、「らい病」になった人は完全に隔離され、けっして人目に触れないようにしてきたという悲しい歴史があります。 現代では、これが完全な誤りで感染力は弱く、遺伝もしない。また、治療薬が開発され、発病しても通院程度で治り後遺症もないという病気であることが判りました。
 「砂の器」という松本清張が書いて有名になった小説をご存知でしょうか。1974年には映画化され、空前の話題作になりました。

線路で男が殺されていたが、手がかりはホステスが耳にした「カメダ」という言葉だけ。腕利きの刑事と若手刑事が捜査を進めるうちに、ハンセン病や空襲がからんだ複雑な人間模様が浮かび上がる。犯人探しよりも、犯人がわかってからのドラマに力点が置かれ、感動的である。(インターネット宮井秀人の映画ノートより)
 ハンセン病の父親に連れられて乞食のように村から村に移動するこの犯人の子供時代の回想のシーンによって、私はこの病気が持っている社会的な差別を深く印象づけられました。すでに、この時にハンセン病は不治の病ではありませんと、映画のテロップで流されていたことを今でも覚えています。
 時が流れて2001年。もし国が控訴をしていたら、またどれだけの年月が無為に流れたことでしょう。元患者の多くが70歳を越えている事から考えれば、今回の「控訴断念」の持っている意味の大きさは計り知れないものがあるといえます。
 小泉首相と面会したハンセン訴訟原告のひとり、西トキエさん(19歳発病、現在71歳)の手記が掲載されています。

     お母さんと会いたい。でも生きているのか、
   死んでいるのかも分かりません。
   ひとこと、「お母さん」と呼びたい。
   でも呼べないわたしです。 
   どうか、わたしをふるさとに帰してください。
   もう長引かせないでください。

 
この人にどんな人生があったかを想像するのはそう難しいことではないように思います。けっして時間を元に戻すことが出来ない五十数年の慟哭の日々を、 この控訴断念は、ほんの少しだけ和らげることができるように思います。
 小泉総理と坂口厚相に拍手です。
チャリンコ生活 2001・5・14
 4月27日、免許停止処分が始まった。
 別に免停中に自動車に乗れない訳じゃないし、乗らないつもりでもなかった。要は捕まらなければ良い訳だし、しっかりシートベルトを締めて踏み切りで止まっていれば、そうそうお回りの世話になる筈もない。世の中の多くの人間はそうしている筈である。例え万が一捕まったとしても、身体を拘束されるわけでもなし「取り消し」で一年間、免許が取れないだけである。
 初めのうちはウキウキしたような気持ちで車に乗らない生活を楽しんでいた。5月1・2日と免停を半分の期間に短縮するための講習があった。ちょうどその日はゴールデンウィークの休みの中でもあって、片道一時間少しの道のりをチャリンコを漕いで出かけていった。サイクリング気分だった。
 ところが、「講習」には同じ免停90日の「仲間」が21人も、雁首を並べておとなしく座っていた。
不思議と誰一人声を発するでもなく溜息をつくでもなく、淡々と前で喋っている「講師」の声だけが、実に空しく響いていた。二日間・12時間という拘束が解けて家路につく。小雨が降る中、ほぼ全員が無言で乗合バスに乗り込み、無言で降りていく。「講師」のお上品な恫喝には何の反応も感じなかったし、もうすでにその多くを忘れてしまったが、この「仲間」の無言の会話は、どういって良いか分からない強烈な印象を与えられた。
 それに加え、確かに手元からあの免許証がなくなったのも大きく影響した。23歳で免許証を手にしてから、これが手元にないという経験は初めてである。何の予想もしていなかったが、なくなってみると、まるでその昔、武士が刀を取り上げられたときのように所在がないのである。手足をもがれたダルマのようにという表現があるが、もがれてみないと分からないものもあるもんだ。
 おり悪く、ゴールデンウィークの真っ最中。息子が帰ってくるといっても三津浜まで迎えにも行けない。娘が帰ってくるといって、タクシーでJRまで行く始末だ。もちろん、何所へも出る気にならないから、みんなでごろごろと家の中で遊び呆けた。どうやら、この辺から「意地」を張り始めたようだ。こうなったら意地でも乗らないぞの「意地」である。日頃、車で行く温泉から回転寿司のコースをチャリンコで廻った。なんともすがすがしい気分で、人生にこんな喜びもあるのかという再発見をした気分だった。
 連休が終わり日常の生活が戻ってきた。否、新しい日常の生活が始まったのである。チャリンコ人生の開始だった。乗らないと覚悟を決めれば車は飾りほどのものである。仕事場まで12分。チャリンコのほうが近い。コミセンの卓球だって、チャリンコの方が余程移動が早い。畑にだってチャリンコで行ける・・・。
 
分かっているんだ、それらは全て単なる「意地」を張っているだけなのである。私はあと四週間この意地を通すつもりになっている。そして、二度と会う事もない顔も知らない21人の「仲間」の打ちひしがれた思いと、手元に免許証がないという空白感との持つ意味を考えてみようと思う。
 梅雨が始まる。
ふーーーーーーーーっ。 2001・4・14
 私には現在、山口県宇部市に住む息子と、京都市に住む娘がいる。二人ともそれぞれ大学に通い、その出費たるや脛をかじるどころの話じゃない。屋台骨がきしんでいる。折角離れて住んでいるんだから、たまの休みにはそれぞれを拠点にして旅行気分を味わおうなんてことを考えついたのが、そもそもの間違いだった。
 2000年8月30日。
 松山港を出発したフェリーは私の愛車を載せて広島県柳井港に着き、旅は始まった。宇部に住む息子の部屋は畑の中にあり、車を一晩路上に置いた。翌日の朝、助手席のドァに見るも無残な悪戯による釘か何かの引っかき傷。この辺で、この旅の先に暗雲が立ち込めている事に気づくべきだったのかも知れない。
 8月30日。快晴(だったはず)
 車は、中国自動車道を京都に向けて軽快に走っていた。午後0時16分ごろ、兵庫県西宮市辺りを通ったらしいが、そんなこと覚えている訳もない。ただ、高速道路というのは、100キロで走るのは難しい。増して、ガラガラに空いていて、80キロ制限なんていうのは拷問かもしれない。幾らでもスピードが出る。いや、出てしまう。その夜、娘と琵琶湖のほとりで食べた夕食はことのほか美味かった。
 このあと、東京に出て首都高速に初めて乗り、兄貴と再会して碁を打ち新宿で友人と会って、それはそれは楽しい休暇を過ごした。帰途は、東京から大阪南港まで、そして松山まで愛車は軽快に走りつづけ、事故にも遭わず、思い出多い旅は終わった。
 だが、思い出はこれだけでは済まなかった。
 12月14日。天気なんて覚えてない。
夏の旅の事なんて遠い過去の出来事になった、そろそろ寒くなりかけた年の暮れのころだった。何時ものごとく夜も遅くにマンションの郵便受けを覗いて、一枚の薄っぺらい張り合わせた青い葉書を手にした。いつもの事務連絡だろうと目を落とすと、「呼び出し状、・・・・警察隊」という文字が宙を舞った。
「んっ・・・」
暫く、事の推移を飲み込むまでに時間がかかった。エレベーターで自分の部屋まで行くうちに、数ヶ月前の出来事がぼんやりと思い出されてきた。どうやら交通違反の話だ。そして、12月18日に神戸の警察に出頭せよというむちゃくちゃな話である。
 12月17日
ともあれ、この忙しいのに神戸までなんて行ける訳もないと思い、078−392−・・・・に電話をした。電話の向こうで、今年大学を出たばかりくらいの若造警察官が通り一遍の本人確認をしている。
「呼び出し状について記憶はありますか?」
馬鹿やろう、ないっていったらどうなるんだよ。どうせ、きれいな写真を持っているだろ!こういう時、オレは権力と喧嘩しても仕方がないとすぐに思ってしまう。悪い癖だ。
「オービスと言いまして、ストロボがピカッと光ったはずですが、ご記憶ありませんか?」
お前に取り締まりの機械について説明されたくなんかない!それより、何キロオーバーなんだよ。
「ここは、制限速度が何キロが覚えていらっしゃいませんか?」
お・ま・え。いい加減にセーよ。カリカリしながらも、「いいえ、よく覚えていません・・・」あ〜〜あ、情けない。
「80キロ制限のところ、136キロ出ていました。ちょっと急いでおりましたか?」
うるせぇっつーの。
フーーン、136か。大して出ていなかったなぁ。でも、待てよ、56キロオーバーか。こりゃ凄いぞ・・・。確か、簡易裁判になって、免許停止は90日。罰金はいくらかなぁ・・・
「所轄が松山東署になっておりますから、後日、そちらから呼び出しがありますので、それまでお待ちください。」
それを早く言えっつーの。
なんだか、安心したような、緊張したような。それにしてもこの腹立たしさは何処にもぶつけようがない。くそっ!
 2月8日
初めのイライラが諦めに変わり、頼むから何でも言うとおりにするから早く呼び出してくれと思うころ、電話のベルがジリジリ、と鳴った。
「こちらは、松山東署ですが。」
来ると分かっていても、あまり好きにはなれない響きである。ざんざん待たせておいて、すぐ来いと言う。まぁ、嫌な事は早くに済ませてしまいたいから、その日のうちにそそくさと警察に出かけていった。
「運転されていたのは、ご自身に間違いありませんか」
もういいっつーの。早く写真を見せろ。
おお、これか。良く写っているなぁ。格好良い車だ。よっ、シートベルをしてたんだ。立派なもんだ。
「すいません、これ、記念に頂けませんよねーー」
本当に欲しかった。
型通りの「事情聴取」を受けて、あの福田和子も通った警察の門を後にした。
 3月13日
松山地方検察庁に出頭した。立派な被告人である。
「裁判にされますか。」
検事が、平気な顔をして言う。
「すいません。簡易裁判にしてください。」
何故か知らないが、えへらえへらと返事している。
お前に自尊心と言うものはないのか。バカヤロウ!
これまた型通りに話は終わった。こうして、私は犯罪人になった。
 その後、裁判所から罰金80000円のご沙汰があり、またまた警察から行政処分の通知があった。
免許停止は、もうすぐ始まる。
精々大人しく、反省することにしよう。
 ふーーーーーーーーっ。
花の名前 2001・4・4
 ガーデニングを始めてどれくらいになるのだろう。こんなにのめり込んで必死にやり始めたのは3年前の春だが、それまでも暇を見つけては花を買ってきて育てていた。その頃は、花なんて日当たりの良い所において毎日水を遣っておけば花を咲かすものだ、くらいの知識しかなかった。それで、いつの間にか枯れていった花たちがどれほどいたことか。今思えば、本当に可哀想な事をしたものだ。
 真剣にベランダガーデンを始めて、花の本を二冊買った。それから花の本はどんどん増えた。新しい花を買うと、まず本を開く。植え替えのとき、季節の変わり目のとき、どんな時でも困ったら本を開く。トイレの本棚には花の本が並んでいる。本を読むと、それぞれの本で書いている事が時々違っている。一方では、水遣りは控えめにとかいてあるのに、片方では土が乾く前に水遣りをしなさいになっている。、また、腐葉土を使いなさいがピートモスを使いなさいになっていたりする。初めのうちはそれだけで3日間くらい頭を悩ませることになる。それから、セーロムという観葉植物の育て方が分からず本屋を駆け回ったことがあった。しかし、これについて書いてある本は何処にもなかったなんていう経験もある。その頃は本がないと自信がなかったのである。
 花には名前がある。名もない花とよく言うが、それは嘘である。雑草にだって全部名前がついている。この花の名前を覚えることがガーデニングの第一歩なんだ。初めのうちは、スパティフィラムはスパゲッテイのフィルムだとか、アリッサムは「あれっ、寒」なんてバカなことをしながら覚えたが、こういうのはなかなか覚えられない。実は、花の名前は自然に覚えてしまった。何故かというと水遣りだ。水遣りのときに漫然と鉢に水を遣っている人は花が好きな人ではないし、好きにはなれない。花に水を遣るときは、状態が良いか、元気か、蕾がついたか、虫はいないか、寒くはないか…、考えることはたくさんある。その時、花の名前は彼女の名前を呼ぶがごとく口ずさむこととなる。

「こいつは確か、ディプラテ゜ィニア、ディプラテ゜ィニア。寒いところは苦手で、冬に落葉しても一週間に一回くらいずつ水遣りは続けるんだ。」
こんなことを考えて水遣りしていると、とっても楽しい。
 前回書いたが、去年、大切にしていた桔梗を枯らしてしまった。同じ頃、薄いピンクの中輪の花を咲かす薔薇も何故か殺してしまった。また、長いこと白い大きな花を咲かせてくれたサザンカも突然に死んでしまった。どれも、とても気に入って大切にしていたのにと、今でも思い出す。いつだったか花屋の主人に聞いたら、「それは、きっと虫でしょう。」なんて、事もなげに言われた。まだまだ、修行が足りないと思った。
 鉢植えは庭木に比べて難しい、と最近になって思う。

腰が痛い

2001・3・2
 あれはいつのことだったか。
 数年前の春先、エンドウの収穫をしていたときだった。奥の畝にある絹サヤを取ろうとして妙に腰が伸びた。その瞬間、なんとも表現し難い腰痛を初めて経験した。確かに痛いのだが、切ったり打ったりした痛さとは全く違う種類の痛さである。瞬時に広がるその鈍い痛みは脳味噌をひくひくさせた後、立っていることが出来なくなるくらいに私の身体中の力を引き抜いた。辺りの景色が乳白色に変わり、遠くから聞こえている町の騒音が耳に入らなくなる。額に脂汗を浮かべながら、そのまま地べた寝転んだ。
 どれくらいの時間が過ぎただろう。ぼんやりした頭の中で、痛みの様子を計っていた。
「はたして立てるだろうか、歩けるだろうか。」
 恐る恐る身体を動かしてみた。あの絶望的な脱力感は確かに残っていたが、立つことは出来た。歩くことも出来た。「これが腰を痛めるということか。」まだ、いつもと少し色合いの違う畑の畦道をそろそろと歩きながら、初めての体験に何とはなしにウキウキした気持ちであった。案外、死出の旅立ちにもこんな未知への体験に対する期待があるものなのだろうか。どこかで、そんな馬鹿なことを考えていた。
 親父は、私が幼い時から口癖のように、「腰が痛い。」と言って嘆いていた。若い頃から大工仕事が大好きで子ども部屋や物置などを一人で作ってしまうような人だったが、そんな大工仕事で腰を痛めたと聞いていた。子どもの私が乱暴に親父の腰の上に乗って足踏みするのを、親父は喜んだ。そんな何十年も前の話を、自分が腰を痛くして初めて思い出した。腰の痛みの意味が分かって、親父の歳に一歩近づけたように思えて嬉しかった。
 腰が痛いというのは実に面白い。農作業や卓球など過激な運動をしていても、特に障害がない。ところが、事務仕事で長いこと椅子に座っていると、これがなかなか辛くなってくる。一週間も一月も忘れていたのに、ある朝起きようとして起きることが出来ない。先日、原付きバイクで山まで登って降りたところで血の気がひいた。久々の脂汗との対面だった。どうやら、徐々に悪化しているのかもしれない。あまり、悪くなる前に整形外科の世話にならなくてはいかんかも知れない。
 親父の二の舞にはなりたくない。
農耕日誌1 2001・2・16
 2月。
 温度はまだまだ低いが日がきらきらと輝いていたので、今日は農業の日と決めてベランダでゴソゴソと作業を始めた。先日からしようと思っている事ことがたくさんあった。まずは、アマリリスの植え替えだ。去年、大きな花を咲かせてくれたこいつを植え替えてやらないと可哀想だ。去年は買ってきたものを水遣りしていただけで咲いてくれたが、今年はそうはいかない。物の本には、赤玉土と腐葉土を混合してと書いてあるが鉢を返すとピートモスで育てている。よし、これはピートモスにマグアンプKでやってみようと決めて土を作り球根を半分以上土の上に出すようにして植え付けた。うまく咲いてくれるか、楽しみが増えた。
 次に、桔梗だ。一昨年はあの青い涼しい五輪の花弁を爽やかに咲かせてくれたのに、去年は後一歩のところで突然枯れてしまった。こいつは人参のような球根を持っているというから、植え替えてやればきっと今年は花を咲かせてくれるだろうと期待して、ずっと鉢を崩さずに今日までベランダの隅のほうに置いてきた。いざ、球根を傷つけないようにと周りのほうから土を崩し、最後に中心の塊をそっと崩し始めた。ところが、出て来たのは中身の朽ちたガラだけの球根の残りかす。すでに桔梗は死んでいた。

 気を取り直して、カラーの球根の植え替えを始めた。こいつは自信があった。この黄色いカラーの花は私のお気に入りの一つで、去年も素晴らしい花を咲かせてくれた。秋までしっかり水遣りをしてあるから、きっと丸丸に太っているはずだ。また周りのほうから土を崩し始めたが、今度は期待通りに見事な球根がころころと出てきた。大きいものは二つに割って、それでも6号鉢に入り切らないので鉢を二つに分けて植えつけてやった。
 意気揚揚、最後は今日のメインイベント。春になったら畑に植えるために茄子、ピーマン、獅子唐の種まきだ。その辺の種苗店で買っても一株100円もしない。我ながら物好きだとは思うが、そんなことを言っていては百姓が趣味だとは大言が吐けない。お金の問題ではないのだ。心意気なんだ。忘れていても今年はよそうと思っていても、2月の中旬になると
「種を植えなくては・・・」
 身体のどこかで、こうして囁く声がする

 土は日頃のベランダ園芸で使い古したのを取ってある。茄子とピーマンの種は去年使った残りの半分を今年の為にとっておいた。獅子唐は畑で種用に完熟するまで置いておいたもので、この日の為に準備していたものだ。ナイロンポットに土と肥料を入れ種を入れて軽く割り箸で混ぜる。てつや流種植えである。ポットは29個できた。満足だ。
  明日からは、また水遣りの日々が始まる。。暖かくなると水遣りの回数が多くなる。春よ、早く来い!
至福のとき 2001・1・16
 私は卓球している。ゴルフではなく卓球だ。世の男共はゴルフ以外のスポーツを低く見るところがあって何度か不愉快な思いをしている。卓球のどこが悪い。
 真面目に卓球を始めて数年になる。20歳台の頃に少々熱を入れたことがあり、ビギナーから始めるよりは少しでも経験があった方が楽しめるだろうとか、60歳を越えてからでもやっている人を見かけるので、健康のためにするのだったらちょうど良いだろうという何とも気楽な気持ちで始めた。
 だから、健康維持が最大の目的である。分かっているのだが、実際始めるとなかなかそうはいかない。そもそも負けるのが嫌な性分で、どんな勝負事も必ずあるレベルまで遮二無二頑張ってしまう。卓球が健康維持で済む訳がない。それで、私は卓球教室に通い始めるときに自分に決め事を作った。
「対外試合には決して参加しない。」
 この自分に対する決め事を守ることで、今日も楽しく卓球ができていると信じている。勝っても負けてもそれ程に深刻にならず後に残ることなく、真剣に汗をかいて楽しめている。
 午前中の二時間、必死にオレンジボールを追いかけると身体中がグタグタになる。いつもは家に帰ってシャワーを浴びるのだが、今日は、かねて計画をしていたユララ一周漫遊の旅に行ってみた。ユララとは、自宅の近くにある温泉のことであり、日曜の夜などには、しばしばお世話になっている、言わば我が家の銭湯替わり。ここを卓球後の贅沢シャワールームとして利用しようというのである。昼下がりの湯船には人影は少なく、明るい日差しがのどかに差し込んでいる。小さな女の子を連れた若い父親が何か話し掛けている。なんとも穏やかな光景だ。卓球で痛んだ腕や足はほど良く熱い湯が心地よく、筋肉の一つ一つに染み入るようだ。シャワーなんかと比べ物にならない。ボーッとしてその辺に横になればすぐにでも眠気が襲ってくる。身体が冷たくなれば湯船にドフンと沈めばいい。たとえ由布院でもこんな贅沢は味わえない。

湯煙の向こうに見える 寒椿

 風呂から上がり、使い慣れた自動按摩器に横たわる。いつもは時間を気にしてせかせかと終わらせるところをたっぷり2回、20分もの間ゴロゴロと按摩器は背中を行ったり来たり。バンバンに張っていた右肩は搗きたての餅のごとくほにゃほにゃになる。夢の世界と現実を行き来する間に身も心も爽快感に満たされる。
 仕上げは、生ビールに少々のツマミ。今日はイカリング揚げにした。いつもは体重を気にして通り過ぎるのだが、今日は何てったってユララ一周漫遊の旅だ。バーンと張りこんでイカリング揚げを口に放り込み、グビグビとビールを飲む。
「美味い!」
もう、これ以上の幸福を私は知らない。

 あっ、そういえば仕事があった・・・
 
 このツァーが病みつきになるかどうかは分からない。しかし、今日のビールの味はなかなか忘れられそうもない。
卓球万歳!
娘、二十歳。 2001・1・8
 今日は成人式。全国に成人を迎える若者はたくさんいるだろう。私の娘もその一人である。つい昨日まで娘が「成人式に出たい。」などと言っているのを、私は大して興味を示さずにぼんやり見ていた。彼女はすでに家を離れ、一人暮らしをしている。何も成人式の為にわざわざ帰ってくることもなかろうと、半ば冷ややかや目で見ていた。
 しかし、女房は違っていた。日頃、家事全般は徹底的に手を抜くことを生甲斐にしている奴が、半年も前から何を着せるか髪は写真はと子育て全盛期のような気配りを見せていた。そして結局は、彼女の母が手縫いをして若かりし頃に何度か着たという和服を、娘は着ることになった。30年振りにその着物は日の目を見ることとなったのだ。

 母の母 縫いたる着物袖通す じゃじゃ馬娘 今日二十歳なり

 親が言うのは気がひけるが利発な子だった。それでも、中学生時代はテニス部のレギュラーになれずに悔し涙を流し、高校のコーラス部ではおばあさんの顧問と折り合いが悪くてブツブツ言っていた。大学に進んでからはストリートダンスとやらに熱中している。
やっと好きなものに出会えたらしく夜も日も明けずダンス三昧の日々らしい。羨ましいことだ。
 今日は朝4時に起こされて、美容室へ。ヤツは3時半には目が覚めたとか、ずいぶんと気合の入っていることだ。6時半には写真屋へ。母の母と母の姉と、そして大好きな兄貴も伴って大満足で写真に納まった。
 実は、2年前に娘が家を出たときから親の責任なんて言葉は卒業した思っていた。後は、楽しいことも辛い事もぜいぜいたくさん味わって生きて行って欲しいと思っていた。しかし、こうして娘の二十歳を祝ってみると、ここには親としての区切りの意味が含まれているのだと、娘の背中を見ていてふっと感じた。
 これで親の責任がまた一つ終わる。
びっくりした話 2001・1・7
 またまた、囲碁の話で恐縮だが、色々事件はあるものだ。
 元旦の朝。
 新年にゲンを担いで一局頑張るかとパンダネットにつなぐと、そんな日に限ってすぐに相手から申し込みがある。アメリカ人のNさん。今までに打った記憶がないが六段と書いてある。負け数をみると勝ち数より多いので安心だ。大して強くはない。早速手合いが始まる。やっぱり新春に一局というのは気持ちがすがすがしい。今年もいい碁をたくさん打ちたいものだ、なんて殊勝な気持ちになる。
 ところが、数手進むと横からメールが飛び込んできた、珍しいことだ。英文で「今、このNと打ったものだが、相当アンフェアーな事をする奴だから気をつけろ。」とか何とか書いてある(それくらいは分かる)。あらあら、それはご丁寧にと「thx」なんて書いて返信ボタンを押す。彼は相当頭にきているようだ。
六段だけあって碁はなかなか強いが、どうやら私のほうが一枚上手のようだ。中盤に差し掛かるところで大石(たいせき)が死んで、どうにもお話にならない。普通なら、さっさと投了する場面だ。だが、彼は(彼女は)、すいすいとどこまでも打ち進んで終盤を迎えた。
 これまでも、負けると分かった相手から突然中断されたりマッタされた経験はあるから、そろそろ何か出てくるかなとは期待(?)していた。ネット上での終局の仕方は少々難しい。普通の対局なら、どちらかが「ありませんね」などと言って陣地の数を数えやすいように整理を始める。しかし、ネット上ではそれができないから、互いにパスを押して終局した後、相手の死んだ石をクリックで除いて陣地を確定する。もちろん、確定の前に予想した数になっているかどうかを確認して、何か問題があれば終局の状態に戻せるようになっている。
 どうやら奴は、この確認機構を使ったトリックを思いついたようだ。奴のほうからは、普通に死に石を除いて相手が確定ボタンを押すのを待つわけだ。そして、「確定を押してください。」というテロップが流れたところで一度「戻る」を押してすぐにまた「確定」を押す。すると、また「確定を押してください。」と流れる。私の方は、待っているだけの状態で勝敗が決するのだが、「確定を押してください。」のテロップが流れるとクリックする習慣があるので、気楽に「はい」っと「確定」を押してしまう。
 その瞬間、負けなのである。
 「Nさんの勝ち」を見て暫く我が目を疑ったが、状況はすぐに理解できた。そのときすぐには、不思議と腹は立たなかった、ただ驚いた。対局相手の意識と機械の弱点を巧みに突いたトリックの上手さに脱帽だった。
 しかし、時間が過ぎるにしたがって無性に腹が立ってきた。こんな不正な行為までして「勝ち」にこだわる碁打ちは、もちろん日本人にはいない。たかだか趣味の世界である。気持ちよく打つことの方が百万倍も大切なことだろう。それを、こうして無理やり勝とうとする背景にはどうにも私の分からない世界がありそうだ。囲碁のおかげて貴重な体験をたくさんさせてもらっている。碁界が世界に広がることも大賛成だ。しかし、碁の持つ豊かな精神構造はなかなか世界に広がらないようだ。
 辛く悲しい正月になってしまった。
原付バイクと古里庵 2000・12・9
 古里庵と出会って2ヶ月が過ぎようとしている。山仕事をすると汗が吹き出ていたのが、いつの間にやら、動いてないと寒さを感じる頃になった。
 この二月の間、何度となく恐い思いをしたが、中でも上り下りの山道はその際たるものだ。軽四のトラックがやっと通る山道を、愛車クラウンで登る恐さはいつもがサーカスの曲芸みたいなものだ。よくこれまで脱輪して谷底に落ちていないものだと感心する。だからといって、そう簡単に4WDの軽トラを買うわけにもいかない。全く稼ぎのない趣味にそんな大金をつぎ込んだら、それでなくても角が生えかけている財政管理当局が黙って見過ごすわけがない。
 思案に思案を重ねて、出した結論は「原付バイク」。
 実は、バイクはとっても好きなんだ。大学に行った息子に持っていかれて以来、ずっと寂しい思いをしていた。
「よし、ここは原付しかない。」と、決めたのはいいが新車で買えば、車体と保険で20万近くになってしまう。やっぱりここは中古しかない。
 前に世話になったバイク屋のガラス戸を開けると懐かしい顔が出てきた。
「やあ!先生。どうしましたか。」
「ボロでいいんだけど、安い原付がないかな。」
「これ、四万でどうだい」
話は早い。5年の自動車保険をつけて、登録料と消費税はサービス。何と、5万5千円で念願のバイクが自分のものとなった。3980円のニューのヘルメットと1980円のウインドブレイカーに身を包んでこれで完璧だ。
 この原付の走ること走ること。山までの道は爽快そのもの。渋滞もなければ、信号もない(できるだけないところを選んで走る)。何より山道もスイスイ。ついに初めて古里庵に直接乗り付けてしまった。ヘルメットを脱いで満足そうなてっちゃんの顔が想像できるだろうか。

 気温は下がってきているが、山仕事にはちょうどいいくらいだ。植えつけの時期でもあり、原付の出番は多くなりそうだ。
時計 2000・12・1
 数日前の朝、目が覚めて腕時計を見ようとすると左腕にあるはずの時計がない。
「何処かに置いて寝たかなぁ」
ぼんやりした頭であたりを探すと日頃では考えられない枕の隅に見つけた。手に取ると、時計は本体とベルトの留め金が片方で外れ、だらしなく長々と伸び広がった。いつ外れたものか留めピンを探してみたが辺りにはなかった。
 この時計はもう5・6年のつきあいになり結構気に入って使っている。早速直そうと思ってはみたが、これを買った時計屋は街中にあり車では行きにくい。近くに直してくれるところは・・と考えてみると、今時、時計屋がなくなっていることに気がついた。 そんな訳で、腕から外れた時計はだらだらと背広のポケットで所在なく時を刻んでいた。

 今日は、意を決して街中にある時計屋に行った。部品の取り寄せになるから数日は置いてくることになるのを覚悟しながら、短時間だろうと駐車違反をした。
「少々お待ちください。」
素敵な若い女性の店員さんが、そそくさと修理部に持っていってしまった。ホケッとあとに残された私は、30万だの、40万だのという高級時計の並ぶショーウィンドゥを前に、車を気にしながらも、もう少しで定年かといういい歳のおっさん店員と世間話を始めた。
「時計はデジタルになって、安い物が出回るようになりましたね、時計屋さんはたいへんでしょう。」
「そうですね、1000円の時計でも時間は正確に刻んでくれますからね」
「街に時計屋サンを見かけなくなりましたね」
他人の商売も気になるあたりが、フケて来た証拠だと自分に気づいていない。
「最近、若い人に手巻きの時計が人気があるんですよ。」
「ああっ、昔からのあれですね。」
「電池式の時代になって、逆に手巻きの時計に存在感を感じるのでしょうか。」
「確かに、本物の暖かさがありそうです。」

 女性の店員が手に修理された私の時計を持って現れた。
 今日は持って帰れないと覚悟をしていたので嬉しかったことと手巻き時計の頃の時計の有難さを思い出して、無事に左手に納まった私の愛器の重量感をいつになく楽しむこととなった。
 車に違反切符は張られていなかった。メデタシメデタシ。
                  「マッタ」には困った            2000・11・10
 昨日、日曜日。夜は、決まりのコースで、ハンダネットの囲碁を楽しんでいた。 最近、念願の六段格になれたのはいいが、勝敗の方は辛いところだ。
 そんなことはどうでもいいのだが、ネットでよく対戦する相手にYさんというアメリカ人がいる。彼も(彼女かもしれないが)、五段から苦労して六段に上がり、私にとっては良きライバルとして尊敬すらしている相手だ。
 昨日は、そんなYさんと運良く出会えて「いざいざ勝負!」ということになった。案の定、碁は壮絶な戦いになり、何時ものように二転三転しながらも、私の不利が徐々に決定的になっていった。そう難しくないわたしの手に、Yさんは手を抜き、必ず私が受けなくてはならないところを一度は利かした。これで、彼はふと、間が指したのだろう。次の一手で決定的な間違えをしてしまった。
 碁を打っていて間違えることはよくある。しかし、私たちのレベルで日本人なら、一度打った石をはがすという暴挙は決してしない。そんなことをする位なら、あっさり負けを認める。どんなに悔しくても、どんなに良い碁でも、置いた石をはがす事だけは恥ずかしくて出来ない。
 その信じられないを、尊敬するYさんは私の目の前でしたのだ。突然、私の打った石が盤上からなくなった。
「何事が起きたのか」
瞬間、わが目を疑ったが、すぐに状況は理解できた。外国人が「マッタ」をするのを何度が経験していたからである。
「しかし、Yさんほどの人がマッタをするのだろうか・・・・。」
少し考えて、もう一度同じところに打った。なにしろ、これは決定的な一手で、碁は終わりなのである。
やはり、私の打った石は同じように消えた。彼は、「マッタ」をしたのだ。

さぁ、困った。
私には、こういう時どうしたらいいかの基準がない。
私が「戻る」のボタンを押せば「マッタ」が成立することくらいは知っている。
しかし、碁は、クライマックスだ。「マッタ」を認めることは負けることだ。別に負けてもいいが、決定的な場面であることはYさんも承知の上で「マッタ」をする訳だから、このまま認めるのは、あまりに・・・・、何と言っていいか分からない。
 私は、「なぜ、貴方ほどの打ち手がマッタをするのか」と、メールを送って投了のボタンを押す道を選んだ。

 囲碁はずいぶん世界に広まっている。今後もこういう事が続くのだろうか。この事件を文化の違いで終わらせたくはない。基本的、初歩的マナーが成立しない囲碁は碁にならない。
 本当に困った話である。